会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~

公開日 2023年01月20日

更新日 2024年09月19日

「誠」とは「忠義」なり。

 新選組の誕生には歴史的必然性があり、会津藩との関わりは宿命的と言えるものがあります。
 「徳川家への忠誠」を貫き京都守護職を拝命した会津藩主松平容保公、武士らしい生き方を望んだ「壬生浪士組」、「誠」と「忠義」は幕末の京都で結ばれ会津藩御預としての「新選組」が誕生しました。ここでは会津藩と新選組の関わりを紹介します。

 

目次

 

会津藩と新選組の宿命的な関わり

「誠」とは「忠義」なり

 新選組の誕生には歴史的必然性があり、会津藩との関わりは宿命的と言えるものがある。会津藩は、藩主松平容保公が京都守護職を拝命するにあたり、徳川三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之公の遺訓がその運命を大きく変えることとなる。「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず。」この家訓第一条の「徳川家への忠誠」が、いかなる諸事情があろうとも徳川家へ「忠義」を尽くす会津藩の根源であり、第9代藩主容保もこれを貫こうとしたのである。
 一方、多摩の郷士であった近藤勇ら「壬生浪士組」の本意は、武闘行為ではなく「尽忠報国の誠」を果たすことにあった。また、彼らは出自が郷士であるだけに武士として士道に生き、軟化した武士達よりも武士らしい生き方を望む。そして彼らが武士(もののふ)として理想としたものは、連綿と受け継がれた会津藩の士道「忠義」であったのである。
 この宿命的で至純な誠心から出た「義」によって会津藩と壬生浪士組は幕末の京都で結ばれ、会津藩御預として「新選組」が誕生することとなる。彼らは、会津藩とともに御所の警護や過激派志士達の鎮圧に働いたが、「大政奉還」がなされ「王政復古の大号令」が発布されたことにより江戸幕府は終焉。会津・函館へと続く戊辰戦争へ突入していくのであるが、敗戦に継ぐ敗戦の身にありながらもなお、彼らは士道に殉じることで、その筋を通し「忠義」を尽くしたのである。

 

開国から京都守護職まで~会津藩の宿命~

 長きにわたり鎖国を続けていた江戸幕府であったが、アメリカの開国要求を受けた際、老中阿部正弘は、朝廷にこれを伝え、諸大名にも意見を求めるなど、従来の幕政の慣行を破り、政治や外交への有力大名の発言力を強めてしまうこととなった。また、開国以後、尊王攘夷派の水戸の浪士たちに大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されるなど、幕府の権威はますます傷ついていった。
 幕府は、権威を回復するため、朝廷と融和を図る公武合体政策をとり、14代将軍家茂の夫人として孝明天皇の妹和宮を迎えることにしたのである。1863(文久3)年3月にこの公武合体策を実現するため、将軍徳川家茂の上洛を予定していたが、京都市中は、尊王攘夷派の浪士たちによる暴挙が横行し、治安が非常に悪化していた。幕府は、諸藩の意見を受入れ、京都守護職を新設し、強力な藩をもって京都の治安維持にあたらせることとしたのである。
 そこで会津藩に白羽の矢が立てられた。藩主松平容保は病床にあったため、何度も辞退したが、越前藩主松平春嶽は、藩祖である保科正之の遺訓を持ち出し説得を続け、家老の西郷頼母らが、当時の情勢から、まるで薪を背負って火中にとびこむようなものと、容保へ辞退を迫る中、将軍家への忠誠を重んじ、君臣ともに京都の地を死に場所としようと決意し、ついに京都守護職を拝命したのである。そして1862(文久2)年12月24日、会津藩主・松平容保は藩士千人を率いて入京したのである。

 

清河八郎の画策「浪士組募集」

 1862(文久2)年12月、出羽庄内出身の浪士、清河八郎の建言により、幕府は、関東及び周辺諸国の浪士の募集に踏み切った。翌年3月に控えた将軍徳川家茂の上洛の警護にあたらせるため、京都の治安の回復のため一翼を担わせようとしたのである。この浪士募集策は、尽忠報国の士であれば身分年齢を問わないとして募集し、清河自身が浪士組240名余りを率い、翌年2月には上洛することになったのである。
 しかし、この浪士募集策は、もとより攘夷倒幕派であった清河八郎の画策だったのである。本意は、浪士たちを攘夷の先兵とし、横浜の外国人居留地を襲撃するというものであった。案の定、京都へ到着するや否や、幕府ではなく尊王攘夷の先鋒部隊であるという内容の上表文を提出したのち、壬生新徳寺に浪士たちを集めると攘夷実行に備えるため江戸に戻ると演説した。この事態に憤慨した幕府は浪士たちを江戸に呼び戻すこととなるが、多くはこれに従ったが、これに反発し、本来の目的を果たそうと京都に残留を希望するグループがあった。のちの「新選組」である。
 江戸に戻った清河八郎は、4月、幕府の放った刺客、佐々木只三郎らに暗殺されることとなる。

 

新選組の誕生「会津藩御預 新選組」

 1863(文久3)年2月4日、幕府の募集策によって小石川伝通院に300人近い浪士たちが集まった。この中には、のちの新選組の中心メンバーとなる天然理心流近藤道場の近藤勇をはじめとする土方歳三、井上源三郎、沖田総司ら、また、芹沢鴨を中心とする水戸派の浪士たちの姿もあった。予定より多く参加があったため禄位が減ることに対して不満をもった一部を除いて、残った240名余りは中山道を京都へ向かう。
 上洛後の2月29日、浪士たちに対し、清河八郎は、一転、浪士募集の本来の目的と異なる主張をする。大勢はこれに従い江戸に帰還したが、近藤勇の一門と芹沢鴨一派らは、将軍の警護の目的で参加したのだ、と主張し、京都への残留を希望し、清河と対立する。「しいて江戸にたたれるにおいては、われらは同志※13名だけは京にのこり申す」(末記)という芹沢に対し、清河は怒り、畳を蹴って席を立ったという。
 たとえ幕府から禄位はなくとも、という覚悟で、芹沢と近藤は鵜殿に京都残留を願い出る。「私共の体がどのようになっても京師に止まりたいと申し上げると、鵜殿鳩翁は関心を寄せ、すみやかに松平肥後守殿(容保)にその旨を達した。肥後守は大いに喜ばれ、これまでどおりに経費を下され、※14人の者は京師に止まるよう御沙汰された」(浪士文久報国記事)と、容保公から京都守護職預かりの肩書きをもらい3月12日、ここに新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生したのである。
※人数文献によって異なる。

 

新選組の活躍 京都編

 会津藩の御預となった壬生浪士組は、文久3年8月18日、会津藩の命により御所へ出動し、尊攘派の公卿7人と長州藩を京都から追放とするという朝廷内のクーデター「八・一八の政変」において活躍するのである。その直後、壬生浪士組は、会津藩より武家伝奏に伝えられ、「新選組」と命名され、あわせて京都市中警護を命じられた。
 翌年には、尊攘派浪士の古高俊太郎を捕らえ、京都市街を焼き放ち、松平容保公をも殺害しようと計画していた長州系の浪士たちの陰謀を自白させることに成功。三条小橋の旅籠池田屋に参集しているところを急襲し、事なきを得た。この池田屋事件で新選組は一躍有名となった。

 

新選組の活躍 会津編

 新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返した。甲州勝沼戦争を経て、近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し、戦争の舞台は宇都宮さらには会津へと移る。
 会津においては、負傷した土方歳三に代わり、斎藤一が隊長を務めることとなる。白河方面へ出陣し、白河関門の守備にあたる。猪苗代町の母成峠において、会津藩士や新選組隊士を含む800名と西軍3000名とが交戦。
 旧幕府軍の敗色が濃厚な中、土方歳三は援軍を求めて、単身仙台へ向かう。会津に残ることを主張した山口次郎(斎藤一)ら一部の隊士は、市内如来堂において西軍に急襲され全滅したと言われる。(実際には何らかのかたちで脱出し、その後も生存している。)
 翌年、土方歳三の函館での戦死をもって、「新選組」は武士の時代とともに終焉を迎えた。

 

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新選組とゆかりの人物

 新選組

  • 近藤 勇【こんどう いさみ】(1834~1868)
近藤勇の写真 (佐藤福子氏 所蔵)

 武州上石原村(東京都調布市)の生まれ。16歳で天然理心流3代目近藤周助の養子になり、28歳で天然理心流4代目を襲名、近藤勇と称す。
 1863(文久3)年2月浪士組として上洛。八・一八の政変に出動。9月、狼藉を繰り返す芹沢鴨らを暗殺し、新選組の頂点の座に立つ。翌年の池田屋事変で勇の名を世に轟かせる。1867(慶応3)年鳥羽・伏見の戦いの直前に御陵衛士の要撃で右肩に銃傷を負い、参戦せず江戸に戻り、翌年3月、新選組を甲陽鎮撫隊として甲府を攻めるが敗戦。4月、大久保大和(おおくぼやまと)の偽名で下総流山で再挙を試みるが、急襲してきた征討軍に出頭、連行途中に偽名を見破られ同月25日、東京板橋で斬首される。京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされた。享年35歳。
 市内の天寧寺には、土方が近藤のために建立したと言われる墓がある。

 
  • 土方 歳三【ひじかた としぞう】(1835~1869)
土方歳三の写真 (佐藤福子氏 所蔵)

 武州石田村(東京都日野市)の生まれ。25歳の時に正式に天然理心流に入門。
 1868(慶応4)年下総流山で近藤と別れ、旧幕府の幕臣大鳥圭介の軍に合流。宇都宮の戦いで負傷し、会津田島を経て若松に入る。清水屋旅館に投宿し、東山温泉で湯治したと言われている。この間に、容保公に近藤の戒名をもらい、天寧寺に墓を建てたと言われる。母成峠の戦いに参戦。滝沢本陣に出陣していた容保公を城内に送り、援軍を求め仙台を目指す。
 同年9月大鳥や榎本武揚とともに函館の五稜郭で戦い、翌年5月11日戦死。享年35歳。

 
  • 斎藤 一【さいとう はじめ】(1844~1916)
斎藤一の肖像画 (市立函館博物館 所蔵)

 旗本用人の山口家に生まれる。19歳の時に誤って人を斬り、江戸から京都へ逃れた。上洛してきた浪士組と会い、新選組結成後は、その腕を買われて副長助勤となり、沖田、永倉に並ぶ剣客で剣術師範も務めた程であった。池田屋事変では、最初の斬り込みには加われなかったが、到着後屋内に飛び込み苦戦していた近藤らを助けたという。また、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)らが脱隊した時に同行し御陵衛士となるが、スパイとして近藤に情報を流していた。新選組に復帰した後は、山口二郎と改名し戊辰戦争に身を投じ、鳥羽・伏見、甲州勝沼の戦いを経て会津に辿り着くが、すでに近藤は亡く、負傷した土方に代わり隊長となり新選組を指揮した。しかし会津戦争が敗戦間近になると、見切りをつけて仙台に向かおうとする土方と意見が対立し、『会津を見捨てるのは正義ではない』と、一部の同士とともに会津に残る。その後、藤田五郎と改名し、会津藩士の娘時尾(ときお)と結婚。警視庁に勤務し、最後は東京教育博物館に勤務。後半生を会津人として生き、本人の希望により、市内七日町阿弥陀寺に眠っている。享年72歳。

 
  • 飯沼 友次郎【いいぬま ともじろう】

 伝・新選組隊士。慶応4年1月5日、佐川官兵衛率いる別撰隊に所属し、淀千両松で戦死。享年26歳。市内大窪山墓地に墓がある。「真輝彦神霊」と刻まれている。

 

 

ゆかりの人物

  • 松平 容保【まつだいら かたもり】(1835~1893)
松平容保の写真 (会津若松市 所蔵)

 美濃三万石松平義建(よしたつ)の六男として生まれ、12歳の時に会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となる。会津藩の将来を託す期待は大きく、家風である「徳川家への忠誠、そして、皇室への尊崇」を容敬から繰り返し教わる。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職を拝命。江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預とし、のちの新選組である「壬生浪士組」を誕生させる。
 孝明天皇からの信頼は非常に厚かったが、鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将軍慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津での孤立無援のろう城戦の末官軍の軍門に下る。その後幽閉されたが、1869(明治2)年に家名再興が認められる。晩年は日光東照宮の宮司となる。享年58歳。幕末維新については一言も語らなかったと言われる。

 
  • 佐々木 只三郎【ささき たださぶろう】

 会津藩士佐々木源八の三男。27歳の時に幕臣佐々木矢太夫の養子となる。幕府講武所においては師範役に任ぜらたほどの剣豪であった。清河八郎を江戸で暗殺。京都見廻組として新選組と共に京都の治安維持に努める。会津藩公用人手代木直右衛門の実弟であり、会津藩と通じており、新選組の会津藩御預に際して尽力していた。鳥羽・伏見の戦いで負傷、和歌山の紀三井寺で没し、墓は会津武家屋敷内に移された。享年36歳。

 

  • 秋月 登之助【あきづき のぼりのすけ】

 田島代官江上又八の子。会津藩士。戊辰戦争開始後は、幕軍の七連隊に転入。その後、伝習隊第一大隊長となる。土方歳三は彼のもと、参謀役を務めた。宇都宮城をめぐる攻防で活躍するも、土方とともに負傷する。治療のため会津へ向かった土方とは田島で別れ、土方は彼が手配した市内清水屋旅館に投宿。会津戦争以後、彼の消息は知られていない。
 

  • 佐川 官兵衛【さがわ かんべえ】

 会津藩士佐川幸右衛門直道の子で、名は直清、幼名は勝。文武に秀で、会津藩京都守護職時代には学校奉行・別選組隊長・諸生組隊長を兼ね、京都市中の警護にあたっては「鬼佐川」「鬼官兵衛」の異名をとった。鳥羽伏見の戦いで奮戦、戊辰戦争の北越戦では会津軍指揮として、長岡藩河井継之助らと共に各地を転戦。戦後明治7年に警視庁の巡査に応募、明治10年の西南戦争には警視隊隊長として参戦し黒川村で戦死した。享年47歳。新選組隊士、斎藤一(藤田五郎)と会津藩士高木小十郎の娘時尾との結婚の際には、山川浩とともに下仲人を務めた。

 

  • 松本 良順【まつもと りょうじゅん】
松本良順の写真

 天保3年、下総佐倉藩医師佐藤泰然(のちに順天堂を開く)の次男として生まれ、のちに泰然の親友である幕医松本良甫の養子となる。安政4年、幕命により長崎へ遊学し、来日していたオランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学び、助手としても日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力する。江戸に帰ると、西洋医学所の頭取となり、幕医として身を投じる。上京した際には、かつてから親交のあった近藤勇を訪ね、屯所にて隊士の回診を行うとともに、隊の衛生管理指導も行う。戊辰戦争勃発後は、江戸に引き上げてきた近藤らの傷病を診察。沖田総司の死を見届けたとも言われている。西軍が江戸に攻め込んでくると、門弟数人を引き連れて会津に入り、土方歳三の戦傷を治療した。また、日新館において診療所を開設し、会津藩の医師らとともに負傷者の治療にあたった。
 幕府方についたため投獄されたが、のちに兵部省に出仕し、山県有朋の要請により陸軍軍医部を設立し、初代軍医総監となる。また、勅撰により貴族院議員となり、男爵に叙される。享年76歳。

 
  • 手代木 直右衛門(勝任)【てしろぎ すぐえもん(かつとう)】

 会津藩士佐々木源八の長男で、手代木勝富の養子となった。京都見廻組の佐々木只三郎は実弟。1863年松平容保公が京都守護職に就任すると、公用人として渉外関係を担当。京都において、新選組や所司代、町奉行などを支配下に置き、これらを指揮して浪人の取締りにあたるなど、当時、藩主容保公をもしのぐ影響力を持っていたとも言われている。戊辰戦争では伏見の戦いで各地で転戦、奥羽列藩同盟で諸藩へ連絡を取り籠城戦では若年寄として奮戦。開城時には米沢へ秋月悌次郎(胤永)と共に降伏の使者にたち、諸藩邸へ禁固され明治5年赦免となる。その後新政府に仕え明治11年岡山県吏となり16年岡山区長に進んだ。享年78歳。
 

 

  • 山川 浩(大蔵)【やまかわ ひろし(おおくら)】
山川浩の写真 (佐川和子氏 所蔵)

 会津藩家老職の家に生まれる。19歳で、京都にいた藩主容保の命により、物頭として上京し、常にその側近にあった。幕府の樺太境界議定に随行、旅行中の見聞によって世界の大勢を学び、攘夷が非であることや近代化の波を体感した。会津戦争では、新政府軍に包囲された鶴ヶ城内に入るため、一計を案じ、彼岸獅子舞を奏して入城。西軍をあっけにとらせた。入城後、防衛総督に任ぜられ総指揮をとる。明治2年松平家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。廃藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範学校長などを兼務。弟である山川健次郎と共に編集した「京都守護職始末」は維新史の新生面を開いた。享年54歳。新選組隊士、斎藤一(藤田五郎)と会津藩士高木小十郎の娘時尾との結婚の際には、佐川官兵衛とともに下仲人を務め、長男「勉」の名付け親ともなった。また、斎藤一が東京師範学校に奉職したのは、当時、現役軍人のまま校長を務めていた彼の引きがあったのだと言われる。

 

 

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史跡

新選組の足跡

  • 清水屋旅館跡【大町一丁目】
清水屋旅館跡の写真

 宇都宮城をめぐる攻防で足を負傷した土方歳三は、会津藩士秋月登之助が手配した当時格式の高かったこの宿屋に宿泊し、治療した。このほか、1852年に吉田松陰が東北紀行の途中に宿泊している。
 現在は大東銀行会津支店となっており、石碑とともに説明板が建っている。

 

バス「七日町白木屋前」下車すぐ

 
  • 近藤勇の墓【東山町】
近藤勇の墓の写真

 土方歳三が足の治療を続けている間、建立させたと言われている。戒名の「貫天院殿純忠誠義大居士」は松平容保公が近藤勇のために贈ったものと言われ、墓に葬られているのは、京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも、また遺髪であるとも言われる。

 

バス「奴郎ヶ前」下車、徒歩15分

 
  • 如来堂(新選組殉難地)【神指町如来堂】
如来堂の写真

 新選組は母成峠の戦いに敗れ、土方歳三は援軍を求めて米沢に向おうとする。しかし、このとき斎藤一は「一トタヒ会津来リタレハ今落城セントスルヲ見テ、志ヲ捨テ去、誠義ニアラス」(谷口四郎兵衛日記)と会津での抗戦を主張し、大激論が繰り広げられた。同意した隊士とともに会津に残留し、この地に宿陣していたが、西軍の急襲により全滅したと言われるが、実際には、斎藤一が藤田五郎として生存していたように、他の隊士を含め7名が維新後も生存していた。

 

バス「神指黒川」下車、徒歩20分

 
  • 鶴ケ城【追手町】
鶴ケ城の写真

 会津若松のシンボルであり、戊辰戦争では約1ヶ月の激しい攻防戦に耐えた難攻不落の名城。土方歳三は慶応4(1868)年6月15日に登城し、輪王寺宮の執当職・覚王院義観と面会したと言われる。国の史跡として指定され、桜の名所としても有名。特にライトアップされた夜桜は必見です。

 

バス「鶴ヶ城入口」下車、徒歩5分

 
  • 東山温泉【東山町湯本】
東山温泉の写真

 天平年間の開湯。藩政時代には、会津藩の浴場と保養所があった。創傷に対して効用があり、宇都宮で負傷した土方歳三はここで湯治したといわれている。明治以降は、この風情に魅せられた文人歌人も多く、与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ、数々の作品を残しています。

 

バス「東山温泉駅」「東山温泉入口」などで下車

 
  • 佐々木只三郎の墓【東山町石山】
佐々木只三郎の墓の写真

 佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで負傷、和歌山の紀三井寺で没した。墓は紀三井寺にあったが、ここ会津武家屋敷に移された。

 

バス「会津武家屋敷前」下車すぐ

 

関連史跡

  • 斎藤一(藤田五郎)の墓・阿弥陀寺【七日町】
斎藤一の墓の写真

 新選組隊士・斎藤一は、土方との激論の末、仙台へは向かわず、ここ会津の地に残り、藤田五郎と名乗った。後半生は会津人として生き、本人の希望により、この地に妻時尾とともに眠っている。

 

バス「阿弥陀寺東」下車すぐ

 
  • 秋月登之助の墓【栄町】
秋月登之助の墓の写真

 宇都宮城をめぐる攻防で活躍。会津戦争以後の消息は知られていない。興徳寺にある。

 

バス「神明通り」下車、徒歩1分

 
  • 西軍墓地【大町二丁目】

詳しくは会津若松観光ナビ・西軍墓地のページへ(外部リンク)

 

バス「大町一丁目」下車、徒歩2分

 

  • 院内御廟(会津藩主松平家墓所)【東山町石山】

詳しくは<国指定文化財>会津藩主松平家墓所(院内御廟)のページへ

 

バス「院内」下車、墓所入口まで徒歩5分

 

  • 佐川官兵衛顕彰碑【城東町】

 平成13年に建立。西南戦争で佐川官兵衛が戦死した地である、熊本県南阿蘇村よりゆかりの大石を譲り受けて建立された。

 

  • 妙国寺【一箕町八幡】

 宝光山と号す。顕本法華宗を開いた日什の誕生入滅の霊場として、日什門流の寺院全国500カ寺を擁し、日蓮宗の本山に列している。創立は1394(応永元)年。戊辰戦争のとき、会津藩主松平容保が降伏、容保父子が一カ月間入寺謹慎した寺である。また飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を最初に葬った所でもある。寺宝に日什上人直筆曼荼羅、釈迦涅槃像(刺しゅう)、田中正玄夫人使用什器などがある。

 

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新選組史跡マップ

地図 

まちなか周遊バスのコースが変更になっている可能性がありますので、運行事業者のホームページなどでご確認ください。

詳しくは会津乗合自動車株式会社・まちなか周遊バスのページへ(外部リンク)

 

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新選組ゆかりの地

※新選組について調べたい場合は、各ウェブサイトのトップページにあるサイト内検索などをご利用ください。

 

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関連リンク

 

お問い合わせ

  • 会津若松市役所 観光課
  • 電話番号:0242-39-1251
  • ファックス番号:0242-39-1433
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