公開日 2022年12月27日
更新日 2022年12月27日
※の付いた写真は公益財団法人野口英世記念会より提供いただいたものです。無断転載はご遠慮ください。
目次
- 野口英世の青春
- 野口清作から野口英世へ
- 世界の野口英世
- 野口英世年表
- 「野口英世」ではなく「Dr.(ドクター)ノグチ」へのこだわり(機関誌「ジャイロ」no.15掲載内容)
- 野口英世が青春を謳歌した町・野口英世青春通り
野口英世の青春
野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、北に磐梯山、南に猪苗代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに生活しました。
左手に火傷を負った幼い清作(野口英世の幼名)は、百姓になることができないため、学問で身を立てて行くために、勉学に勤しみました。その結果小学校時代では、著しく優秀な学生が、先生の代わりに授業をするという「生長」になりました。また、父親が大酒飲みだったのもあり、清作の家は貧乏でありましたが、母シカの清作に対する熱い愛情と、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生の私財を投げ打ってまでの援助があり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。
高等小学校の時、野口清作は仲間の援助を受け、現在の会津若松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けました。その時、清作は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後、左手を手術した病院、会陽医院の渡部ドクトルに弟子入りした。なお、この会陽医院は野口英世青春館と題した資料館となっています(住所:福島県会津若松市中町4-18、電話番号:0242-27-3750)。また、会陽医院の前にある通りは野口英世青春通りという名で今でも語られています。
清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをし、その言葉通り実行していました。19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。そして、その別れ際に、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という言葉を残しました。
野口清作から野口英世へ
東京に出た野口清作(野口英世は)は、会津若松の会陽医院で縁を得た高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)の血脇守之助先生の元で医学を学び、見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得しました。その後、野口清作は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所の助手となりました。
その頃、「当世書生気質」という医学生を主人公にした小説を、野口清作は読んだ。そして、その主人公の名前は「野々口精作」といい、野口清作の名前に、非常に似ていた。また、その主人公の短所が非常に野口英世と似ているということもあり、その短所を直す意味も含め、名前を清作から英世へと改名した。
野口英世は、伝染病研究所内で、来日中に研究所に訪れたシモン・フレキスナー博士と知り合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中にペスト患者を発見・隔離するなどの功績により清国(現在の中国)へ行くことになったりと、徐々に世界の野口英世への足掛かりを作っていった。
世界の野口英世
中国・牛荘(ニューチャン) (1899年)
北里柴三郎の勧めで、清国(現在の中国)の牛荘(ニューチャン)へペスト国際予防委員会のメンバーの一人として行った。
アメリカ・フィラデルフィア(1900年から1903年まで)
恩師である小林先生や血脇先生の援助を受け、アメリカのフィラデルフィアにある、ペンシルベニア大学医学部へ行くことになりました。そこで、野口英世は、蛇毒の研究をしていました。
デンマーク・コペンハーゲン(1903年から1904年まで)
デンマークのコペンハーゲンにある、カーネギー大学のマドセン博士に師事、約1年間の留学をする。
アメリカ・ニューヨーク(1904年から)
ロックフェラー財団によるロックフェラー研究所の所長に、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士が迎えられ、一等助手に野口英世が迎えられました。野口英世のロックフェラー研究所時代での研究を分けると大きく3つに別れます。
- 蛇毒の研究(1901年から)
- 梅毒の研究(1905年から)
- 黄熱病の研究(1918年から)
また、ロックフェラー研究所での研究ぶりは猛烈で、他の所員から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていました。また、この土地で妻メリーと知合い、結婚しています。
ドイツ・ベルリンなど(1913年)
ロックフェラー研究所で梅毒のスピロヘータの研究に成功し、ドイツを始めヨーロパ各地の講演旅行をする。
日本へ一時帰国(1915年)
海外で大成功を収めた野口英世は日本に一時帰国した。その時、野口英世は大勢の新聞記者に囲まれたことからも、野口英世の功績の凄さが分かると思います。
エクアドル・グアヤキル(1918年から)
黄熱病の研究のため、エクアドルのグアヤキルに出張。その後、野口英世は黄熱病のさらなる研究のために、南米各地を回りました。
野口英世は、ペルー、ブラジル、メキシコでも黄熱病の研究を行ないました。
ガーナ・アクラ(1927年から)
南米で野口英世が作った薬では、アフリカの黄熱病は治らない、という連絡を受け、アフリカのアクラへ出張。しかし、そこで野口英世は逆に黄熱病にかかり、51歳の偉大な生涯を閉じた。
野口英世年表
西暦 | 年齢 | 事柄 |
---|---|---|
1876年 | 11月9日福島県猪苗代町三城潟で生まれる | |
1878年 | 1歳 | 4月末、いろりに落ちて大火傷を負う |
1883年 | 6歳 | 三つ和小学校に入学 |
1887年 | 10歳 | 生長となる(生長は、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職のこと) |
1888年 | 11歳 | 磐梯山噴火 |
1889年 | 12歳 | 三つ和小学校卒業・小林先生の援助のもと猪苗代高等小学校に入学 |
1892年 | 15歳 | 友人たちの寄付金により、会津会陽医院のドクトル・渡部鼎に左手の手術を受ける |
1893年 | 16歳 | 猪苗代高等小学校卒業・会津若松にある会津会陽医院に薬学生として入門 |
1896年
|
19歳
|
上京・医術開業前期試験に合格 血脇守之助のいる高山歯科医学院の学僕となる |
1897年 | 20歳 | 医術開業後期試験に合格・高山医学院講師となり、その後順天堂医院に勤務 |
1898年
|
21歳
|
北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務 英世と改名 |
1899年
|
22歳
|
フレキスナー博士の来日中、案内役をする 横浜の開港検疫所医官を命じられ、ペスト患者を発見 中国・牛荘に行き、国際予防委員会中央医院に勤務 |
1900年 | 23歳 | 帰国、そして渡米、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士を訪ねる |
1901年 | 24歳 | アカデミー・オブ・サイエンスで毒蛇の研究を発表 |
1903年 | 26歳 | カーネギー大学研究助手となりデンマークに留学、マドセン博士に師事 |
1904年 | 27歳 | ニューヨークのロックフェラー研究所の一等助手となる |
1907年
|
30歳
|
ペンシルベニア大学のマスター・オブ・サイエンスの名誉学位を受ける ロックフェラー研究所の準正員となる |
1909年 | 32歳 | ロックフェラー研究所の副正員となる |
1911年
|
34歳
|
日本より医学博士の学位を授けられる 梅毒スペロヘータの純粋培養に成功 メリー・ダージスと結婚 |
1913年 | 36歳 | ヨーロッパ各地に講演旅行に行く |
1914年
|
37歳
|
ロックフェラー研究所正員となる 日本より理学博士の学位を授けられる |
1915年
|
38歳
|
日本の帝国学院より恩賜賞を受ける 一時帰国 |
1918年
|
41歳
|
エクアドルのグアヤキルに黄熱病の研究に行く。病原体をわずか9日目に発見 母シカ死す |
1919年 | 42歳 | 黄熱病研究のためメキシコに行く |
1920年 | 43歳 | 黄熱病研究のためペルーに行く |
1921年 | 44歳 | ブラウン大学、エール大学よりドクトル・オブ・サイエンスの学位を授かる |
1923年 | 46歳 | 黄熱病研究のためブラジルに行く |
1926年 | 49歳 | オロヤ熱病原体を発表 |
1927年
|
50歳
|
トラホーム病原体を発表 アフリカに行く |
1928年 | 51歳 | ガーナのアクラで黄熱病の研究。皮肉にも博士自身が黄熱病にかかり逝去 |
「野口英世」ではなく「Dr.(ドクター)ノグチ」へのこだわり(機関誌「ジャイロ」no.15掲載内容)
照島 敏明
【PROFILE】
東京八丁堀出身。昭和51年より会津若松市に在住。世界的に有名な野口英世の業績を調べ、その姿を後世に残すとともに、その野口英世とかかわりのある会津若松市の街おこしのために日夜奔走している。
Dr.ノグチとの偶然の出会い
私の生まれは東京です。大学時代に1年半位イスラエルに滞在し、現地の農業(グレープフルーツ栽培)を手伝いながら卒論「キブツ社会における親子関係」のために現地調査をしていました。帰国後そのイスラエルの自然が忘れられず、東京脱出を考えたわけです。以前から旅行等で、住むなら会津か松本と決めていました。そんな事情で、縁もゆかりもない会津に来たわけです。昭和51年のことでした。
そこで、紹介された物件が今の「会津壱番館」になっている蔵です。その時、大家さんにここはDr.ノグチがやけどの手術を受けた「会陽医院」の跡だと聞かされました。それがDr.ノグチとの最初の出会いです。たまたま借りた家がDr.ノグチを追って会津に来たわけではありません。
その当時Dr.ノグチと会津若松市との関係はほとんど知られていませんでした。Dr.ノグチという偉大な人物が会津若松市で青春時代を過ごしたにもかかわらず、その地元がなにもしていないのはおかしいと考えたのが、Dr.ノグチを調べようとしたきっかけです。こつこつと資料を集め、昭和57年にはこの蔵の2階にDr.ノグチの資料館として「野口英世青春館」をオープンさせました。
Dr.ノグチ第2の故郷ガーナ訪問
Dr.ノグチはアメリカ、ガーナ、メキシコ、エクアドル、ペルー、ブラジルの6ヵ国でその業績を残しています。最近、資料収集を目的として平成6年11月16日から30日までガーナにメンバー2人と一緒に行ってきました。
まず、Dr.ノグチがいた研究所跡地と日本のODAで建設された「野口医学研究所」を訪ねました。この研究所はガーナ大学医学部の付属機関として、Dr.ノグチ没の50年後の昭和54年に日本の無償援助資金協力で設立されたものです。現在5名の日本人ドクターと数百名のガーナ人によって運営されています。また、その研究所から来るまで2時間のところにあるオンヤジ村にある「ノグチメモリアルクリニック」という名前の診療所があるというので、日本出発前は予定していなかったのですが訪ねることになりました。その村に入るやいなや、道の両脇に手作りの「日の丸」ガーナ国旗が飾られており、村あげての大歓迎を受けました。Dr.ノグチの業績がこのネーミングのようにガーナの人々の心に今でも残されているので感動しました。
Dr.ノグチがガーナの研究中に自ら黄熱病に罹り、帰らぬ人となったのは、約70年前の1928年5月21日です。当時Dr.ノグチの研究助手をしていた人が今でも健在なのです。その「生き証人」のウィリアムスさんに会うことができました。90歳という高年齢ですが、ゆっくりとその当時のことを思い出してくれ、Dr.ノグチが非常に研究熱心だったことや、Dr.ノグチが亡くなった後、彼が飼っていた研究用の猿数百匹全てを自分が殺して処分しなければならなかった辛い思い出を語ってくれました。
今回の訪問で、Dr.ノグチの死後70年経った今でも、彼の業績がガーナの人々の心にも息づいていることに改めて感動しました。
街おこしとDr.ノグチ
さて、この「会津壱番館」のある通りは、Dr.ノグチが15歳から19歳まで青春時代を過ごしたところです。会津若松市の中心部を南北に延びるこの通りには、Dr.ノグチの初恋の人、山内ヨネの家や、Dr.ノグチの医学者としてのスタートにもなった会陽医院、そしてDr.ノグチが洗礼を受けた教会が残っています。このDr.ノグチ思い出の街を、この通りの人たちが中心となり、平成2年5月に「野口英世青春通り」と名付けました。
今、全国的に街の元気がなくなってきています。その街を活性化するのは、何も近代化することではなく、地元の伝統・文化・歴史を見直すことから始めることが大切だと思います。やはり、その地元に根付いた活動でなければ、うまく活性化なんてしないと思います。会津若松市は伝統歴史の街です。それでありながららまだまだうまくそれが街に生かされていないと思います。この「野口英世青春通り」は、その街の象徴として「野口英世」を持ってきたわけです。会津若松市には年間350万人から360万人の観光客が訪れます。その人たちに「野口英世青春通り」をあるいてもらい、偉大な医学博士Dr.ノグチを知ってもらいたいのです。今なお、各種観光ガイドブック等に紹介され、街に活気が戻りつつあります。
いじめとDr.ノグチ
毎年Dr.ノグチの命日の5月21日に、今の会津若松市市民会館跡地にある野口英世の銅像の前で、小中学生数百人を集めてセレモニーを行っています。そこで、毎年小中学生の代表数名によるDr.ノグチに関する作文の朗読があり、毎年だいたい貧乏人のDr.ノグチが努力して世界的に有名になったことを読んでくれます。しかし今年は、その中の小学生の一人がいじめにも耐えてがんばったDr.ノグチを取り上げ、いじめられる側もがんばらなければならないということを読んだのです。これには、いままで自分が気付かなかったDr.ノグチの新しい側面を見い出した気持ちでした。
国際人のパイオニアDr.ノグチ
Dr.ノグチの業績を調べていくうちに、彼の真の国際人としての姿が見え、ますます彼の偉業を掘り起こし、永く後世に語り継がなければならないと感じました。Dr.ノグチの偉業は世界に残っており、世界中には「野口」の冠が付く「医学研究所」がアメリカ、メキシコ、ペルーそして今回訪ねたガーナの4ヵ所にあります。Dr.ノグチは、日本と海外を太いパイプでつないだ国際人であるパイオニアだと思います。猪苗代にある「野口英世記念館」には、Dr.ノグチと関わりのあるガーナ、ベネゼエラ、メキシコの在日大使を始め、世界各国の人々が訪れています。
また、世界には、4つのDr.ノグチ通りがあります。エクアドルに2つ、ブラジルに1つ、そして、会津若松市にある「野口英世青春通り」です。「野口英世青春通り」の英語名は「Dr.NoguchiStreet」となっています。これは、世界4ヵ所ある「Dr.NoguchiStreeet」との将来の交流を睨んでのことです。そして、あくまでも会津に生まれた偉人野口英世だけでなく、真の国際人のパイオニアとしてのDr.ノグチのこだわりです。
地域の国際化とDr.ノグチ
先に言いましたとおり、世界には「野口」冠が付く「医学研究所」が4つあるわけですが、そのうちメキシコ、ペルー、ガーナの研究所が日本との交流の中でもっとも望んでいることは医学交流です。Dr.ノグチの生誕地である福島県は、県立の医大を持っています。この医大とそれらの研究所と何らか医学交流ができないか、そのパイプ役として私に何かできることはないかと考えています。
また、「Dr.NoguchiStreet」にちなんで、日本、エクアドル、ブラジルの3ヵ国がこの会津若松市に一堂に会して、何かフォーラムみたいなものができないかとも考えています。Dr.ノグチには街起こし、いじめ等々様々な切り口がありますが、Dr.ノグチを地域の国際化という切り口で何かできないものかと日夜思索しています。
福島県には、Dr.ノグチが偉業を残した諸外国に負けないように、もっと積極的にDr.ノグチの偉業を賛える事業を押し進めることを望みます。
最後に、Dr.ノグチに関する資料を集めています。ご一報いただければ幸いです。
連絡先
- 〒965-0878 福島県会津若松市中町4-18 会津壱番館内「Dr.ノグチを語り継ぐ会」
- 電話:0242-27-3750
- FAX:0242-26-4579
野口英世が青春を謳歌した町・野口英世青春通り
「野口英世青春通り」は世界に著名な医学者、野口英世博士が青春時代をすごした街です。会津若松市の中心部を南北に伸びるこの通りは、博士の過ごした時代(1890年代)も人々の往来の多い、市の中心繁華街として賑わっていました。
通りには博士が15歳のとき、幼い頃背負った手の火傷の手術を受けた「会陽医院」跡が現存しています。その手術の成功に感動した博士は、自分も医師になることを決意し「会陽医院」に書生として住み込み、勉学に励みました。そして医師開業試験を受験するために上京するまでの数年間をこの地に暮らしました。
街の至るところに博士の足跡が残されています。悩み多き青春時代を象徴するように、博士はこの街に現存するキリスト教の教会で洗礼も受けています。また、初恋の人といわれている山内ヨネの生家跡も残されています。博士は、まさに青春真っ只中をこの街で過ごしたのです。
そして今、私たちは博士の青春時代の想いを受けて、この街に住む人々、この街を訪れる多くの人々の心に、もう一度青春を問いかけるーそんな場所となることを願いこの街を「野口英世青春通り」と呼んでいます。
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