野口英世の生涯・年表
※の付いた写真は公益財団法人野口英世記念会より提供いただいたものです。無断転載はご遠慮ください。
野口英世の青春

写真は現代の磐梯山
野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、北に磐梯山、南に猪苗代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに生活しました。
左手に火傷を負った幼い清作(野口英世の幼名)は、百姓になることができないため、学問で身を立てて行くために、勉学に勤しみました。その結果小学校時代では、著しく優秀な学生が、先生の代わりに授業をするという「生長」になりました。 また、父親が大酒飲みだったのもあり、清作の家は貧乏でありましたが、母シカの清作に対する熱い愛情と、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生の私財を投げ打ってまでの援助があり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。
高等小学校の時、野口清作は仲間の援助を受け、現在の会津若松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けました。その時、清作は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後、左手を手術した病院、会陽医院の渡部ドクトルに弟子入りした。なお、この会陽医院は野口英世青春館と題した資料館となっています(福島県会津若松市 中町4-18、電話:0242-27-3750)。また、会陽医院の前にある通りは野口英世青春通りという名で今でも語られています。
清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをし、その言葉通り実行していた。 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。そして、その別れ際に、 「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」 という言葉を残しました。

小林先生の写真 ※
渡部先生の写真 ※
野口清作から野口英世へ
東京に出た野口清作(野口英世は)は、会津若松の会陽医院で縁を得た 高山歯科医学院(現在、東京歯科大学)の血脇守之助先生の元で医学を学び、見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得しました。その後、野口清作 は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三郎を所長とする伝染病研究所 の助手となった。


野口英世の恩師である血脇守之助先生※(左)と、
伝染病研究所の所長である北里柴三郎博士※(右)
世界の野口英世


- 蛇毒の研究(1901年~)
- 梅毒の研究(1905年~)
- 黄熱病の研究(1918年~)

ドイツ・ベルリンなど(1913)
南米で野口英世が作った薬では、アフリカの黄熱病は治らない、という連絡を 受け、アフリカのアクラへ出張。しかし、そこで野口英世は逆に黄熱病にかかり、51歳の偉大な生涯を閉じた。
野口英世年表
西暦 | 年齢 | 事柄 |
---|---|---|
1876 | 11月9日福島県猪苗代町三城潟で生まれる | |
1878 | 1 | 4月末、いろりに落ちて大火傷を負う |
1883 | 6 | 三つ和小学校に入学 |
1887 | 10 | 生長となる(生長は、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職のこと) |
1888 | 11 | 磐梯山噴火 |
1889 | 12 | 三つ和小学校卒業・小林先生の援助のもと猪苗代高等 小学校に入学 |
1892 | 15 | 友人たちの寄付金により、会津会陽医院の渡部鼎ドクトルに左手の手術を受ける |
1893 | 16 | 猪苗代高等小学校卒業・会津若松にある 会津会陽医院に薬学生として入門 |
1896 | 19 | 上京・医術開業前期試験に合格 血脇守之助のいる高山歯科医学院の学僕となる |
1897 | 20 | 医術開業後期試験に合格・高山医学院講師となり、その後順天堂医院に勤務 |
1898 | 21 | 北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務 英世と改名 |
1899 | 22 | フレキスナー博士の来日中、案内役をする 横浜の開港検疫所医官を命じられ、ペスト患者を発見 牛荘に行き、国際予防委員会中央医院に勤務 |
1900 | 23 | 帰国、そして渡米、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士を訪ねる |
1901 | 24 | アカデミー・オブ・サイエンスで毒蛇の研究を発表 |
1903 | 26 | カーネギー大学研究助手となりデンマークに留学、マドセン博士に師事 |
1904 | 27 | ニューヨークのロックフェラー研究所の一等助手とな る |
1907 | 30 | ペンシルベニア大学のマスターオサイエンスの名誉学 位を受ける ロックフェラー研究所の準正員となる |
1909 | 32 | ロックフェラー研究所の副正員となる |
1911 | 34 | 日本より医学博士の学位を授けられる 梅毒スペロヘータの純粋培養に成功 メリーダージスと結婚 |
1913 | 36 | ヨーロッパ各地に講演旅行に行く |
1914 | 37 | ロックフェラー研究所正員となる 日本より理学博士の学位を授けられる |
1915 | 38 | 日本の帝国学院より恩賜賞を受ける。 一時帰国 |
1918 | 41 | エクアドルのグアヤキルに黄熱病の研究に行く。病原 体をわずか9日目に発見 母シカ死す |
1919 | 42 | 黄熱病研究のためメキシコに行く |
1920 | 43 | 黄熱病研究のためペルーに行く |
1921 | 44 | ブラウン大学、エール大学よりドクトル・オブ・サイ エンスの学位を授かる |
1923 | 46 | 黄熱病研究のためブラジルに行く |
1926 | 49 | オロヤ熱病原体を発表 |
1927 | 50 | トラホーム病原体を発表 アフリカに行く |
1928 | 51 | ガーナのアクラで黄熱病の研究。皮肉にも博士自身が 黄熱病にかかり逝去 |
「野口英世」ではなく 「Dr.(ドクター)ノグチ」へのこだわり(機関誌「ジャイロ」no.15掲載内容)

照島敏明
(Dr.ノグチを語り継ぐ会 会長)
Dr.ノグチとの偶然の出会い
そこで、紹介された物件が今の「会津壱番館」になっている蔵です。その時、大家さんにここはDr.ノグチがやけどの手術を受けた「会陽医院」の跡だと聞か されました。それが Dr.ノグチとの最初の出会いです。たまたま借りた家がDr.ノグチを追って会津に来たわけではありません。
その当時Dr.ノグチと会津若松市との関係はほとんど知られていませんでした。Dr.ノグチという偉大な人物が会津若松市で青春時代を過ごしたにもかかわ らず、その地元がなにもしていないのはおかしいと考えたのが、Dr.ノグチを調べようとしたきっかけです。こつこつと資料を集め、昭和57年にはこの蔵の 2階にDr.ノグチの資料館として「野口英世青春館」をオープンさせました。

まず、Dr.ノグチがいた研究所跡地と日本のODAで建設された「野口医学研究所」を訪ねました。この研究所はガーナ大学医学部の付属機関として、Dr. ノグチ没の50年後の昭和54年に日本の無償援助資金協力で設立されたものです。現在5名の日本人ドクターと数百名のガーナ人によって運営されています。
また、その研究所から来るまで2時間のところにあるオンヤジ村にある「ノグチメモリアルクリニック」という名前の診療所があるというので、日本出発前は予 定していなかったのですが訪ねることになりました。その村に入るやいなや、道の両脇に手作りの「日の丸」ガーナ国旗が飾られており、村あげての大歓迎を受 けました。Dr.ノグチの業績がこのネーミングのようにガーナの人々の心に今でも残されているので感動しました。
Dr.ノグチがガーナの研究中に自ら黄熱病に罹り、帰らぬ人となったのは、約70年前の1928年5月21日です。当時Dr.ノグチの研究助手をしていた人が今でも健在なのです。その「生き証人」のウィリアムスさんに会うことができました。90歳という高年齢ですが、ゆっくりとその当時のことを思い出してくれ、Dr.ノグチが非常に研究熱心だったことや、Dr.ノグチが亡くなった後、彼が飼っていた研究用の猿数百匹全てを自分が殺して処分しなければならな かった辛い思い出を語ってくれました。




また、「Dr.Noguchi Street」にちなんで、日本、エクアドル、ブラジルの3ヵ国がこの会津若松市に一堂に会して、何かフォーラムみたいなものができないかとも考えていま す。Dr.ノグチには街起こし、いじめ等々様々な切り口がありますが、Dr.ノグチを地域の国際化という切り口で何かできないにものかと日夜思索していま す。
福島県には、Dr.ノグチが偉業を残した諸外国に負けないように、もっと積極的にDr.ノグチの偉業を賛える事業を押し進めることを望みます。
最後に、Dr.ノグチに関する資料を集めています。ご一報いただければ幸いです。
「ガーナ国大統領(右)との対談」
「ガーナでの朝食」
「野口英世が左手の手術をした会陽医院(現在、会津壱番館)」
「野口英世青春館(会津壱番館2階)」
「照島氏の写真」
電話:0242-27-3750
FAX:0242-26-4579
野口英世青春通り
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「野口英世青春通り」は世界に著名な医学者、野口英世博士が青春時代をすごした街 です。
会津若松市の中心部を南北に伸びるこの通りは、博士の過ごした時代(1890年代)も人々の往来の多い、市の中心繁華街として賑わっていました。 通りには博士が15歳のとき、幼い頃背負った手の火傷の手術を受けた「会陽医院」跡が現存 しています。その手術の成功に感動した博士は、自分も医師になることを決意し「会陽医院」 に書生として住み込み、勉学に励みました。そして医師開業試験を受験するために上京するまでの数年間をこの地に暮らしました。 街の至るところに博士の足跡が残されています。悩み多き青春時代を象徴するように、博士はこの街に現存するキリスト教の教会で洗礼も受けています。また、初恋の人といわれている山内ヨネの生家跡も残されています。博士は、まさに青春真っ只中をこの街で過ごしたのです。 そして今、私たちは博士の青春時代の想いを受けて、この街に住む人々、この街を訪れる 多くの人々の心に、もう一度青春を問いかけるーそんな場所となることを願い この街を「野口英世青春通り」と呼んでいます。 (左の写真※) |
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- 会津若松市 観光課
- 所在地:〒965-8601 福島県会津若松市東栄町3番46号
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