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西郷頼母【さいごう たのも】

(写真提供 会津武家屋敷)

 会津藩の名門に生まれ、文久2年(1862)に33歳で会津藩家老職に就任。鶴ヶ城大手門外の近くに邸を構えていた。同年8月、藩主容保に京都守護職の内命が下った時には、田中土佐と共に江戸に駆けつけ、会津藩主松平容保公に辞退を進言。国力に鑑み、強く反対したが聞き入れられず、容保公は守護職を拝命した。病を理由に家老職を辞し、以後5年間、会津で幽居生活を送った。慶応4年(1868)に旧幕軍が鳥羽伏見の戦で敗走し、容保が会津に帰ると、再度家老に起用されるも、恭順謝罪を説き続け、登城さしとめとなった。しかし、西軍が城下に迫るのをみて、禁を犯して登城するが、再び恭順を説いて主戦派と対立し、越後口方面への使者という口実により城を出された。頼母の登城を見送ったあと、屋敷に残った妻・千恵子をはじめとした一族21名は、西軍の郭内侵入を目前にみながら、全員自決した。頼母は米沢・仙台を経て、函館戦争に参加し、降伏後は、しばらく館林藩に幽閉された。幽閉が解かれると、福島に戻り棚倉の都々古別神社宮司となったが、西南の役を起こした西郷隆盛との交流の疑いがもたれ解雇される。その後、日光東照宮宮司を務める容保公のもとで称宜も務め、旧主を補佐した。享年73歳。なお、柔道小説「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎は、頼母の養子である。

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