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会津人物伝

教育者としての一生

佐原 盛純(さはら もりずみ)
(1835〜1908)

白虎隊詩の作者
 毎年、飯盛山で春と秋に開催される白虎隊の墓前祭で会津高校生による剣舞が奉納されます。
 そのとき詠じられる「少年団結す白虎隊…」で始まる漢詩『白虎隊詩』はその勇壮な出だしから悲壮な結末までが聞く人の心を打ちます。
 この漢詩を剣舞歌として作詩したのが、長く旧制会津中学の教師として国語と漢文を教えた佐原盛純です。

漢学者になるまで
 盛純は、幼名を佐輔(さすけ)といい天保3年(1835)若松馬場町の商家、金上(かながみ)徳兵衛の長男として生まれました。金上氏はもともと芦名氏の一族で祖先の金上盛備が磐梯山麓の摺上(すりあげ)原で伊達政宗と戦い、戦死したため子孫は商人となっていました。
 盛純は幼いときから学問好きで18歳のとき江戸に遊学、会津出身の漢学者添川廉斎や幕府の儒官杉原心齊、易学の金子霜山(そうざん)に就いて学んでいます。そして幕府の外国奉池田筑後守の侍講(じこう)(先生)となり、文久3年(1863)には、28歳でフランスにも渡航しています。
 明治維新後、士族の佐原省三の養子となり、佐原盛純と改名しています。
 明治4年の廃藩置県後は生活のため司法省に勤め、箱根の足柄裁判所に赴任しました。しかし病のため明治8年、40歳で辞職し帰郷。現在の日新町にある信遠寺のそばに引っ越しました。

教師となる
 若松では私塾を開き塾生を指導していましたが、明治11年に福島県の教員として若松町内の各学校に奉職。明治15年に私黌(しこう)日新館が設立されるとその教授となりました。
 明治17年、館長中條辰頼(ときより)の依頼により漢詩「白虎隊詩」を作詩、生徒とともに試行錯誤のうえ、能を基にした剣舞をつくりあげ、10月に飯盛山の墓前に初めて剣舞が奉納されました。
 剣舞と一緒に吟詠される詩は、七言二十行ですが、その後独立した漢詩として七言二十四行の詩が何編か伝えられており最終的に完成したのは明治23年と言われています。
 同年に会津中学が設立されると最初の国語と漢文の教師となり、同34年に病気により66歳で退職するまで10年以上勤務し、1000人以上の生徒を教えました。
 晩年は息子の盛秀について東京、福岡と移り、明治41年12月、宇都宮で脳溢血のため74歳でその生涯を閉じました。
 大正3年、門人たちにより「白虎隊詩」の碑が飯盛山に建てられ、詩とともに白虎隊の精神を今に伝えています。

*参考…会高剣舞会編「白虎隊剣舞百年」ほか