野口英世の恩人
野口英世が医学を志すきっかけとなった出来事は、会陽医院での手の手術だったことはよく知られています。この手術を行った医師が、渡部鼎その人でした。当時、県内でも最高の技術を持つ医師で、その経歴は波乱に富んでいました。
医学者になるまで
渡部鼎は安政5年(1858)に、河沼郡野沢(今の西会津町野沢)の漢学者渡部思斎の長男として生まれ、当時、門弟3千人を持つといわれた父親から漢学を学びながら成長しました。
明治5年、14歳になると横浜の高島嘉右衛門の藍謝堂(通称高島学校)で英学と理化学を習得します。その後、医学を志して大学南校(今の東京大学医学部)に入学するとともに、大家(たいか)の一人である岩佐純にも師事して医学を習得しました。
医師としての軌跡
明治10年、若干18歳で警察医や陸軍軍医試験などに合格し、警察病院勤務をはじめ、陸軍病院や医学校の講師などを歴任しました。また、日本国内で初めてインフルエンザの流行を発見・確認したり、脚気(かっけ)の原因について新学説を発表したりするなど、精力的な活動をしています。
鼎は明治18年末に渡米すると、カリフォルニア大学医学部で外科をはじめ13科目を習得し、同21年にはドクトル・オブ・メディシンの学位を受け、卒業とともにサンフランシスコに開業しました。
鼎の後半生
鼎は明治22年に欧州を周遊して、医学のみならず各国の社会事情も研究します。しかしその翌年には、思斎の死により帰国します。その後、郷土の要望で若松町に会陽医院を開業し「渡部ドクトル」として名が広まり、全会津から患者が集まりました。英世が手術を受けたのもこのころで、明治25年、英世が16歳の時のことです。
明治39年、上京した鼎は青山南町に日本初のラジウム治療病院を開設します。しかし患っていた胃病の保養を兼ねて大正6年には若松に戻り、桂林寺町に再度開業します。
医師以外の業績
鼎は、ほかにもさまざまな業績を挙げています。明治18年、27歳の時には「婦人束髪(そくはつ)会」を結成、それまでの婦人の髪形では不衛生、不自由だとして現代のような髪形を提唱し、講演や新聞で日本中に広めています。また明治33年ごろ、立憲政友会福島支部ができるとその幹部となり、同35年と翌年の総選挙に若松市選挙区から立候補して、衆議院議員も務めました。
◎参考…会津史談会編「渡部鼎先生伝」ほか