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会津人物伝

弓道日本一
大平善蔵(おおひら ぜんぞう)
(1874〜1952)

会津の武道日本一
 会津出身の著名な武道家としては、剣道の和田晋、柔道の講道館四天王の一人、西郷四郎が有名ですが、弓道においても日本一になった人がいます。武道家としてだけでなく、実業家としても活躍した大平善蔵、その人です。

実業界の善蔵
 善蔵は明治7年、若松一之町の金物問屋、江戸屋の長男として生まれました。
 戊辰戦争の影響で、会津地方の長引く産業の沈滞に憂いを持った善蔵は、実業青年会を組織し、産業振興を図ります。まず明治30年に自ら関西地方を視察し、ここに刃物職人を派遣して技術を習得させたり、のこぎりなどの製造では、原料を品質にばらつきのでる玉鋼から大量生産しても品質を保つことができる洋鋼にしたりするなど、それまで一般的だった手法を一新しました。また札幌支店を開設し、北海道開拓に使う森林伐採用ののこぎりの販路を広げ、会津金物の信用を確立しました。このほか、明治35年から2年間、私財を投じて会津金物品評会や全国鋸材木品評会を開催するなどし、名声を全国に高めました。
明治40年には一之町にあった自宅が安田銀行会津支店 (今の富士銀行会津支店)の新築に伴って旧一之丁(今の県合同庁舎敷地) に移転し、新工場も設立しました。工場では機械の導入をはじめ、当時としては画期的な生産方法を取り、第二次大戦前の会津の金物業発展の礎を築きました。

弓道日本一
 善蔵は幼時から会津藩の弓術師範であった鈴木寿衛のもとで日置流道雪派の弓術を習得し、自分の号にも「射仏」や「素弓」とつけるほど「弓」術に傾倒しました。明治40年ころには東京の尾州竹林派の本多利実に師事し、流派のすべてを会得しています。また本多のもとで、弓道の師範で組織する「大日本弓道館」の設立にも尽力しました。
 58歳になった善蔵は、これまで培ってきた事業を息子に譲り、弓道にまい進しました。大正12年には「大日本射覚院」を創立して、弓術に禅を加味した弓道の確立に尽くし、同14年には全国的な武術団体である大日本武徳会から当時の武道家の最高位となる範士の称号を与えられ、名実ともに日本一の弓道師範となりました。その後、善蔵は朝鮮や中国などにも弓道を広めるために奮闘しました。昭和27年、78歳で亡くなった後、全日本弓道連盟から十段を追授されました。

◎参考…大平善治著「会津が生んだ弓道日本一」