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会津人物伝

人物

近代女性の先駆者
新島 八重 (にいじま やえ)
(1845〜1932)
忠君愛国の悲劇
 戊辰戦争では、西郷千重たち婦女子ほか21人が自刀した事件をはじめ、忠君愛国の儒教思想の影響を受けて多くの女性や子どもたちが亡くなりました。この封建時代の思想に縛られた女性から自由な近代的女性に変わったのが山本八重、後の新島八重です。

鶴ヶ城攻防戦
 新島八重は、弘化2年(1845)に米代四ノ丁(今の米代二丁目)で、武田信玄の軍師だった山本勘助の子孫といわれる砲術指南の山本権八(ごんぱち)の三女として生まれました。幼い時から男まさりの八重は、13歳の時には四斗俵を何回も持ち上げるほどの、力自慢の女性でした。
 慶応4年、板垣退助が指揮する西軍が城下に攻め入った時、主力部隊のいない鶴ヶ城にあって敵を撃退したのは婦女子や老人、少年兵でした。この時24歳の八重は、先に戦死した弟の形見の服を着て、自ら銃を持ち参戦したり、砲撃の指揮を取ったりしました。降伏・開城の時には、城壁に「明日の夜は何国の誰かながむらん、なれし御城に残す月影」という歌を刻み付けて退去するなど、忠君愛国の精神を持った人でした。

新島襄(じょう)の妻として
 明治8年に上洛した新島襄は、戊辰戦争後に京都府顧問として活躍していた八重の兄の山本覺馬(かくま)と同志となり、キリスト教的博愛主義による教育を目指した「同志社」を創立しました。このころ兄を頼って京都に出た八重は、ここで襄と知り合いました。八重は女紅場(じょこうば)(後の第一高等女学校)で英語を勉強したり、教師をしたりするかたわら聖書の研究も始め、これがきっかけで襄と急速に親しくなりました。
 明治9年、二人は洗礼を受け、宣教師の立ち会いで結婚式を挙げました。当時、京都ではまだキリスト教徒に対する差別が根強く残っており、周囲の目は冷ややかなものでした。そんな中で八重は、襄と同志として、また夫と立場が対等な妻として近代的な女性に変わっていきました。

襄の遺志を継いで
 明治23年、各地への講演やキリスト教の伝導、同志社の運営のための寄付金集めなどに奔走して体を壊していた襄は、療養先の大磯で亡くなりました。八重は、同志社の生徒たちをわが子として見ていた襄の遺志を引き継ぎ、財産のすべてを寄付し同志社を守り続けました。
 昭和7年、八重は86歳でその生涯の幕を閉じました。

◎参考…大塚實著「私の會津史(4)」
◎写真:同志社社史資料室所蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷