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会津人物伝

日本一の中学校長
浅岡 一 (あさおか はじめ)
(1851〜1926)

白虎隊精神の学校
 この会津にあって観光客が必ず一度はお参りするのが飯盛山、白虎隊の墓前です。ここで会津高等学校生によって奉納される剣舞は、よく質実剛健の会津の気風を表しているといわれています。この質実剛健を校風として確立し、日本中に知らしめたのは、会津人ではないある一人の教育者、会津中学校6代目校長浅岡一でした。

武士から教師へ
 浅岡一は、江戸時代末期の嘉永4年(1851)安積郡桑野村(今の郡山市)に二本松藩士浅岡段介の五男として生まれました。16歳で戊辰の役に参戦し、鉄砲組として転戦すること18回、本宮での戦いでは左腕を銃弾が貫通し、出血がひどく危うく命を落とすところでした。
 浅岡は、明治4年に上京してから文部省高官の書生を務めることになり、これがきっかけで教育界への道に踏み出すことになりました。全国各地を教師として転任した後、明治19年に長野尋常師範学校長になり、今日の教育県・長野の基礎を築きました。このときのエピソードに、校長である自分の年俸が800円なのに、教頭を1,000円で迎えたという有名な話があります。
 明治26年、華族女学校(今の学習院)教授に栄転し、当時の県知事より上の正五位勲五等を得ました。郷里郡山の開成山に引退後、戊辰の役の友藩であった会津からの要請で、明治39年に会津中学校の校長になりました。

モンペが制服
 前代の校長に「日本一の中学校長」とも称された浅岡は、会津中学校校長に就くと日露戦争後の華やかな世相に反発し、質実剛健の気風を作るため洋服に代わりモンペと筒そでの和服を制服にしました。修学旅行で行った東京・上野駅では、モンペ姿を見物しようと群衆が集まり、会津中学校の質朴さが全国に知られるきっかけとなりました。

理想の教師
 柔剣道を奨励し、寒稽古には火鉢にも当たらず生徒の練習を見守り、教職員が病気になれば必ず見舞うなど優しい面をのぞかせる一方では、来校した県知事の名前を失念しても動じないというおおらかさを持つ理想的な教師でした。
 大正元年、退職に際して生徒に残した訓示「曲学阿世(きょくがくあせい)の才子(さいし)たらんより(世間に迎合する人になるより)、世の毀誉褒貶(きよほうへん)をかえりみざる(世間の評判を気にしない)質実剛健なる今世の馬鹿者たれ」は、会津高等学校の校風として今も残っています。

◎参考…相田泰三著「浅岡校長の思い出」