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会津人物伝

初代若松市長
秋山 清八(あきやま せいはち)
(1848〜1915)

郷里復興に賭ける
 戊辰戦争後、一生を郷里会津の復興にささげ、幾度となく中央政界への進出を勧められながらも辞退し続けた地元政治家がいました。初代若松市長秋山清八がその人です。

武士としての前半生
 清八は、江戸時代末期の嘉永元年(1848)若松の新町3番丁(今の材木町)に会津藩士秋山彦左衛門の長男として生まれました。10歳で日新館に入り、17歳で京都守護の別撰(べっせん)隊隊員となり鳥羽伏見の戦いに参戦。その後、越後赤谷口(今の新潟県新発田市)に転戦し、左足に負傷を負いました。このとき、従軍中のフランス人軍医の治療を「夷狄(いてき)(野蛮人)の世話は受けぬ」と拒否したため、生涯片足が不自由になってしまいました。その後も、鶴ヶ城籠城戦や斗南(となみ)藩移住などのつらい経験をしました。

政界への転身
 明治6年、若松に戻るとマッチ製造会社を経営、明治17年には福島県会議員に初当選し、十数年の議員生活の間には、岩越(がんえつ)鉄道(今の磐越西線)の若松乗り入れ実現などにも奔走しました。
 清八が初代若松市長に就任したのは明治32年。会津清酒の東京への販路拡大に尽力したり市政の確立に努めたりしました。

会津中学校の設立
 清八が生涯の中で最も力を注いだのは中学校の設立でした。武士のときのつらい経験から、人材育成には教育が重要であると考えたからです。当時、会津には高等教育機関はありませんでした。それは、明治12年に初めて開校した福島県二番中学校が翌年には廃止され、明治17年に地方税支弁によって設立された若松中学校も明治19年の「一県一校の定め」により再度廃校になったからです。
 清八は有志とともに、私立として中学校を開校しようと、資金集めを始めました。山川浩などの会津出身有力者に働きかける一方、地元をまわって寄付を募り、時の文部大臣榎本武揚を動かし恩賜(おんし)金を得て、中学校設立資金としたのです。
 こうして明治23年に待望の「私立会津中学校」が栄町(今の旧謹教小学校跡)に開校しました。しかしこの後、県立にするために資金5万円以上が必要となり、寄付を募る一方、自らも金銭を出すなどしました。翌年には県立の「会津尋常中学校」になりましたが、運営にはその後も多額の資金が必要でした。
 大正4年8月6日、66歳で亡くなったとき、清八には自宅のほかに何の財産も残っていなかったそうです。

◎参考…西川満著「わがふるさと会津」