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会津人物伝

  社会福祉・児童福祉の先駆者
瓜生 岩(岩子)(うりゅう いわ(いわこ))
(1829〜1897)

会津のナイチンゲール
 戊辰戦争により郷土が荒廃し尽くした会津で、社会活動に一生をささげた女性がいました。岩は、熱意と情熱、その無私の人柄により貧民から華族にまで愛された人でした。

艱難(かんなん)辛苦に耐えて
 岩は、江戸時代後期の文政12年(1829)、耶麻郡熱塩村(現在の熱塩加納村)に油商であった父、渡邊利左衛門と母りゑの長女として生まれました。9歳のとき、父を亡くしたうえ、家が炎上したため、母の実家に戻り瓜生の姓を名乗りました。渡邊家の再興を図る母の勧めで、会津藩の御典医をしていた叔父の山内春瓏(しゅんろう)宅に行儀見習いに出、後の慈善活動の基礎となる仏教と堕胎防止の啓蒙思想を身につけます。
 17歳で婿養子を迎え、若松の横三日町に呉服店を開きます。一男一女に恵まれた矢先、夫が喀血(かっけつ)。その後7年の間に叔父の死、番頭の金の持ち逃げ、夫の他界が続き、店を閉めて母の実家の熱塩に戻ります。翌年には、母も亡くすという失意の時期を過ごしました。

活動の軌跡
 子どもたちが一人前になると、岩は社会児童福祉に力を入れていきます。戊辰戦争では、敵味方の区別なく負傷兵を看護し、避難民の救援に尽くしました。明治になると、喜多方に幼学校を設立し、読み書きそろばんなどを教えました。
 小学校令が発布されると幼学校を閉鎖して上京し、貧民救済事業を学び、会津での施設開設に奔走します。しかし、官営の施設としては認可されず、それでも廃寺を借りて孤児や行路病者などの世話をしました。
 明治19年に、陳情のため県庁のある福島の長楽寺境内に移り住み、その努力が実って4年後、県の許可を得て孤児のための福島救育所を設立するに至ります。その後救養会所を全国に設置するよう、第1回帝国議会に請願書を提出します。また、渋沢栄一に招かれ東京市養育院の幼童世話掛長を8ヵ月ほど務めました。当時、皇后陛下の御召により宮中に伺ったとき、素肌、素足・木綿の服で拝謁したことは、岩の飾らぬ人柄を感じさせるエピソードとして残されています。

女性初の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)
 会津に戻ってからは、若松・喜多方・坂下の3ヵ所に貧児養育施設を設置し、また貧困者のための医療施設を若松に開設しました。一方で、明治21年の磐梯山大噴火、24年の濃尾地震などにも難民の救出を行い、その資金捻出のため飴のかすを利用したかす餅やパンを考案し売出します。これらの活動により、女性初の藍綬褒章を授与されます。明治30年4月19日、福島に帰った岩は、無理がたたり、心臓病で多くの人に惜しまれながら永眠しました。

◎参考…小島一男著「会津女性辞典」