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会津人物伝

日本文学の改革者
横光 利一
よこみつ りいち

(1898〜1947)

新感覚派
 大正12年(1923)、マグニチュード7.9の大地震が首都東京を襲いました。江戸の名残を色濃く残す東京の街は、一瞬にして壊滅します。横光利一は、震災後近代都市に変貌(へんぼう)する東京で、作品「蝿(はえ)」を発表、斬新(ざんしん)な表現で文壇に登場します。翌年、川端康成(かわばたやすなり)らと同人誌「文芸時代」を創刊し、新しい表現を求め活動を始めます。その手法は、明治時代以後に文壇が築いた日常表現に挑戦する、先駆的な表現として「新感覚派」と呼ばれました。

北会津郡東山村
 横光利一は明治31年(1898)3月17日に、父の梅次郎と母のこぎくの長男として北会津郡東山村大字湯本川向(今の東山温泉)で生まれています。梅次郎は大分県、こぎくは三重県の出身で、父親が土木関係の仕事に従事している関係で東山温泉に滞在していました。以後、一家は滋賀県大津市や三重県上野市など日本各地を転々とします。

川端康成との出会い
 18才で早稲田大学高等予科へ入学し、同級生の中山義秀を通して、生涯の師と仰ぐ菊地寛(きくちかん)と出会います。寛は、文壇の登竜門「直木賞」「芥(あくた)川賞」を企画するなど、社会における文学の地位の確立に、大きな影響を与えています。さらに寛を通して、利一の無二の親友、川端康成とも出会います。
 24才で利一は川端康成らと同人を組み、「文芸時代」を創刊します。前衛的な短編を次々と発表し、自らを「新感覚派」と呼びました。この創刊を経て、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞する川端康成や、日本文学に文芸評論を確立する小林秀雄らを輩出し、戦後の現代文学の確立に大きな影響を与えています。

未刊の大作「旅愁」
 4年間の同人活動後、利一は大衆文学に傾倒し、心理主義を取り入れた斬新な手法で、次々と長編小説を発表します。38才のころには、「純文学にして通俗小説」を主張し、若い世代の圧倒的な指示を受け、「文学の神様」とまで称されます。40才でヨーロッパ旅行を機に、東洋対西洋、伝統対科学を問題とする「旅愁」の執筆を始めますが、10年を経て完成を見ないまま終戦を迎えます。

心の無二の親友
 利一は、戦時中の文芸活動により「戦争責任者」に指名され、社会批判を浴びました。間もなく胃潰瘍(かいよう)が悪化し、昭和22年(1947)不遇のまま、50才で亡くなりました。
 新感覚派の盟友である川端康成は、その墓碑に自筆の「横光利一の墓」の文字を送るとともに、「君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、僕の恩人であった」と弔辞を送りました。

◎参考…奥野健男著「日本文学史」