胆力の外交官
明治政府は、国家の近代化を進め、帝国主義をとる欧米諸国に対して、中国・朝鮮半島への進出を目指していました。アジアの東の小さな島国であった日本は、圧倒的な力を持つ欧米諸国と外交交渉を重ね、近代国家への仲間入りを果たしました。林権助は、日清戦争・日露戦争を経て、激しく揺れ動く国際舞台で、豪胆な行動力を持ち「胆力の外交官」として活躍しました。
会津藩砲兵隊長の祖父
林権助は、万延元年(1860)3月2日に会津若松城下で生まれました。7歳で会津藩校日新館へ入学しますが、会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を解任され、薩摩(さつま)・長州の連合軍と戦った鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いで、会津藩砲兵隊長の祖父と父又三郎を失います。戊辰(ぼしん)戦争では、藩主容保とともに若松城で籠城(ろうじょう)しました。
一日に3合の米
開城後、祖母・母とともに新天地である斗南(となみ)藩へ移ります。一家は一日に3合の米の配給を頼りに空腹をしのぎますが、生活は次第に行き詰まります。母親は知人を頼り上京し、権助を託して会津へ帰りました。権助は、会津出身の知人の家を転々とし、その噂を聞いた薩摩藩出身の陸軍少佐児玉実文(こだまさねふみ)が、かつて薩摩と会津で戦った祖父との縁から権助を養育します。
東京帝国大学政治学科
権助は19歳で大阪専門学校に入学、2年後に東京大学予備専門学校へ転学、さらに東京帝国大学政治学科へ進み、24歳で卒業します。東大総長渡部洪基に才能を認められ、推薦を受けて外務省に入り外交官としての道を歩みます。
日韓議定書
韓国副領事館、北京公使館を経て、外務省通商局長を務め、39歳で韓国駐在特命全権公使となります。当時、日清戦争の勝利で大陸に大きな足掛かりを掴(つか)んだ日本は、南下政策で権益を狙うロシアの軍港建設を阻止し、日本外交の基本と言われた日韓議定書を締結します。権助は、激しく揺れ動く国際情勢を見極め外交交渉に手腕を発揮し、桂太郎・小村寿太郎とともに三人男の異名を取りました。
東洋の平和
明治39年、清国(今の中国)の軍艦が武器密輸で日本船をだ捕した「滝丸事件」が起こり、清国駐在特命全権公使の権助は、日本政府から清国の謝罪を求めるよう指示を受けますが、日本に非があるため指示を無視し続けます。幸い、イギリスの仲介で解決しましたが、その後も日本が軍事力を背景に強引な政策を取ることを戒め、自身の外交理念「東洋の平和」を貫きます。
英国駐在全権公使を務め、晩年は宮内省(くないしょう)式部官を経て枢密院(すうみついん)顧問官となり、昭和14年(1939)、80歳で亡くなりました。
◎参考…「会津の群像」小島一男著