銅像になった大阪市長
昭和10年4月4日、モーニング姿で威風堂々とした15尺(約4.5メートル)の銅像の除幕式が、大阪市の中心地、天王寺公園の小高い丘の上で執り行われました。
建立された銅像は、大阪市長を3期10年にわたり努め、停滞していた市政の改革に取り組み、大阪市の発展に大きな足跡を残した、池上四郎をたたえたものです。
刻苦忍耐
池上四郎は、安政4年(1857)、会津藩士池上武輔の第4子として、会津若松市で生まれました。11歳の時、戊辰(ぼしん)戦争を経験し、開城後、再興を許された斗南(となみ)藩へ父とともに移住しています。その厳しい風土の、生死の狭間(はざま)での生活のなか、父親から「刻苦忍耐」の教育を受けています。
強く向上心を抱く四郎は、兄の三郎を頼りに上京します。そして、横浜正金銀行の柳谷卯三郎の書生となり、苦しい生活のなか勉学に励みました。
大阪府警部長
20歳で警視局一等巡査として採用され、まもなく警部として石川県に赴任。その後、富山県の警察署長、京都府警部などを歴任しました。さらに千葉県、兵庫県などの警部長を勤め、手腕を発揮しています。
そして44歳の時、大阪府の警部長となり、13年間にわたり治安の維持に活躍。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民から信頼されていました。
大阪市長
大正2年(1913)、市政浄化のため、57歳で嘱望されて大阪市長に就任します。財政再建を進めながら、都市計画事業や水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図りました。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも力を注ぎました。
また関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を送り、被災者の救済を行っています。
朝鮮総督府
3期10年間の市長職を退任後、四郎は、日本が植民地政策を推し進めていた朝鮮へ、総督府政務総監として赴任しています。当時、半強制的に進められていた大土地所有制によって、貧困化していた小作農を救済するため、小作法を制定するなどの救済政策を進めました。しかし昭和4年(1929)、四郎は任期半ばにして病に倒れ亡くなっています。享年73歳でした。
その功績をたたえ、大阪市民の手で銅像が建立されたのは、それから6年後のことでした。現在ある銅像は昭和34年に再建されたもの。今もなお、天王寺公園の丘の上から、大阪府民を見守っています。
◎参考…小島一男著「会津の群像」
◎写真提供…博物館会津武家屋敷