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会津人物伝

宗教教育に貢献した人
井深 梶之助
いぶか かじのすけ

(1854〜1935)

信教の自由
 近代の日本は、西洋の文化を積極的に取り入れ、国家施策として産業の近代化に取り組みました。しかしながら、羊頭狗肉(ようとうくにく)といわれるように、その精神的な文化の受容には消極的であり、明治32年(1899)にはキリスト教などの宗教教育の規制を行います。これに対し、明治学院総理の井深梶之助は、毅(き)然として講義し、信教の自由を訴え、宗教教育を堅持しました。
 梶之助は、日本のキリスト教会の指導者として国際的にも活躍し、大きな足跡を残しました。

日新館学頭井深宅右衛門(たくうえもん)
 井深梶之助は、安政元年(1854)に城下本三之丁(現在の東栄町)に生まれました。父、宅右衛門は、藩校日新館で学頭を務める、会津藩きっての知識人でした。梶之助も14歳で日新館に入学しますが、間もなく戊辰(ぼしん)戦争が始まります。白虎隊に編入されながら年齢不足で参加できず、父に従い新潟県小千谷(おぢや)市に出撃しています。帰城してからは藩主の小姓(こしょう)となり、籠城(ろうじょう)戦を戦いました。

宣教師ブラウン
 会津藩の降伏により藩士は謹慎させられ、後に斗南(となみ)藩として再興を許されますが、梶之助は西洋の圧倒的な技術力を知り、その背景となる西洋学を学ぶべく、16歳で上京しました。
 斗南藩・土佐藩の私塾を転々とし、横浜の「修文館」の学僕となります。そこで、英語を教えていた宣教師のブラウンと出会います。わずかな身の回りのものを売り払い生活費に当てていた梶之助は、ブラウンの経済支援により、勉学を続けました。
 ブラウンの指導を通して、世界観や人生観の影響を強く受けた梶之助は、戊辰戦争の恨みを乗り越えて、人道的な包容力を養い、自発的に19歳で洗礼を受けています。

明治学院
 明治10年、ブラウンの塾が発展的に解消して東京一致神学校となり、同19年には明治学院となります。梶之助は副総理を務め、36歳でアメリカに留学し、帰国後、総理に就任しました。
 明治23年に文部省が、公認学校における宗教の儀式・教育を禁止すると、憲法に定める信教の自由を主張し、公認学校としての特典を拒否して、宗教教育を堅持しました。

寛容の人
 大正10年(1921)に30年間務めた総理の職を辞した梶之助は、日本のキリスト教会の代表として、国際会議にも出席し、日本の国際理解のために尽くす一方、多くの著書も残しています。そして、昭和10年(1935)に81歳で亡くなりました。
 公平無私で、高い倫理観を持った梶之助は、寛容の人と賞されています。

◎参考…明治学院「井深梶之助とその時代」