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会津人物伝

理論を実践した教育学者
小西 重直
こにし しげなお

(1875〜1948)

教育の本質
 昭和20年8月15日、日本は太平洋戦争で無条件降伏しました。戦争時の空爆により、国内の産業基盤は、壊滅状態となり、戦後の極限的な混乱の中、戦争孤児が都市にあふれ出ました。
 この混乱の中、教育学者小西重直は、教育の根本は「天地の親心」であるという信念を持ち、戦争孤児に慈善の手を差し延べています。そこには、自らの幼少時代の体験に基づいた「敬・愛・信」を教育精神とする独自の哲学がありました。

旧会津藩士小西馬之允(うまのじょう)
 小西重直は、明治8年(1875)に米沢で生まれ、富所代吉(とんどころしろきち)と名付けられました。富所家は米沢藩士でしたが明治維新で没落し、母親は母子心中を図り一命をとりとめています。生活もままならない赤貧の中、11歳のとき、かつて母親に恩を受けた母のいとこ小西馬之允の養子となり、若松へ移ります。養父は、旧会津藩士で、重直は藩校の流れをくむ會津日新館に入学し、学問の道が開かれます。

重直へ改名
 15歳で福島県尋常(じんじょう)中学校(今の安積高校)に入学します。ここで、若き教育者岡田五莵(ごと)と出会い、教育者を志し、東京師範学校(筑波大学)を受験し、失敗。第二高等学校(東北大学)に入学し、尊敬していた杉浦重剛、中村正直の名をもらい代吉から重直へ改名します。さらに、東京帝国大に入学し、哲学を専攻、アルバイトで生活費を得ながら、哲学・心理学など多様な人生観・宇宙観を養いました。大学を首席で卒業し、ドイツへ留学、哲学者フォルケルトに師事し自身の教育観の出発点を築きます。

滝川事件
 帰国後、広島高等師範学校から文部省を経て、京都帝国大学の教授となり、体験に基づく実践的な教育学を育みました。昭和8年同じ会津出身の新城新蔵(しんじょうしんぞう)の後を受けて、京都帝国大学の総長に就任しました。間もなく、法学部教授、滝川幸辰(ゆきとき)が行った講義に対して、文部大臣鳩山一郎が辞職を要求する滝川事件が起こりました。学問の自由と大学の自治に関わるこの事件で、大臣の要求を最後まで拒否した重直は、その責任を取って辞職します。

感謝の生涯
 辞職後は、創立に関わった玉川学園や成城学園の顧問を務め、自身の教育観の実践を勧め、山鹿素行(やまがそこう)や広瀬淡窓(ひろせたんそう)などの日本の哲学に傾倒していきます。
 敗戦後、祖国再建の情熱から、自ら開墾に取り組み、「糞(ふん)尿一体の生活」を送ります。幼少期に数奇な運命をたどった人生から、戦争孤児の学校に激励と協力を惜しみませんでした。昭和23年には、自らの回想録である「感謝の生涯」を出版し、その年の7月21日に74歳で急逝しています。

◎参考…「福島百年の先覚者」福島県