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会津人物伝

窯業(ようぎょう)の発展に貢献した画家
坂内 文石
ばんない ぶんせき

(1865〜1930)

窯業徒弟学校
 会津工業高校の前身である本郷窯業徒弟学校は、明治28年に創立された、全国でも五指に数えられる古い歴史を持つ職業学校でした。その設立には、明治中ごろの本郷焼きの飛躍的発展を背景に、技術者の育成に賭ける伝統産業の情熱がありました。坂内文石は、創設当初から教論となり、一生を窯業の発展と人材の育成に捧げました。

旅籠 (はたご) 越後屋
 坂内文石は、慶応元年(1865)に湊村原(現在の市内湊町)の小川文一郎の次男に生まれ、本名は文三郎と言いました。原村は白河街道の宿場町で、文石の生家も「越後屋」という旅籠を営んでいました。小さいころ、同じ原村の坂内家の養子となり、坂内姓を名乗りました。小さいころから画を描くのが好きな少年であったと言います。

赤崎堂雪甫(あかさきどうせつほ)
 14歳のころ、文石は生家の旅籠屋を利用していた本郷の陶磁師、水野瀬戸右衛門(号雪渚(せっちょ))と出会い、本格的な絵画の手ほどきを受けます。その後、師の一字をもらい「雪甫」と名乗り作品を残し、17歳で会津本郷町に移り住みます。そして、焼き物の工人となるため、本格的に修行を始めました。

旧会津藩の絵師たち
 戊辰(ぼしん)戦争の敗戦後、藩の絵師たちは本郷焼きの絵付けを行い生計をたてていました。絵師らの指導により、草花や山水などを写実的に描いた染付けの磁器は芸術品にまで質を高め、本郷焼きは海外にまで輸出されるようになりました。
 本郷に移った文石は、雪甫から文石に名を変え、旧会津藩絵師である遠藤霞村(かそん)に本格的な日本画を学び、高い技術を身につけ、画家としての評価も高めます。

福島県立工業学校
 文石は32歳のとき、本郷窯業徒弟学校の創立とともに模型科教師となりました。明治37年に、新たに若松市において福島県立工業学校に改組されると、窯業科の教論となり、市内の徒之町に転居しています。絵付けの第一人者となった文石の作品は、教材として東京美術学校(東京芸大)の資料室にも展示されていたといいます。59歳で退職し嘱託として指導に当たりましたが、昭和5年、65歳で現職で亡くなりました。4年後、その業績を偲(しの)び、職員・同窓生たちにより、校内に「坂内文石氏記念碑」が建てられました。

会津万歳(あいづまんざい)
 文石は、教師・技術者であるとともに、ユーモアを愛する洒脱な人でした。川柳をよみ滑稽画(こっけいが)を描くなど多彩な才能を持ち、特に、農閑期に村々を回り、太夫と才蔵が面白おかしく掛け合いをする「会津万歳」をこよなく愛した、万歳の画家としても有名です。

◎参考…特別資料展「蕪雨と文石展」図録