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会津人物伝

人物

同志社大学の創設に協力
山本 覚馬
 やまもと かくま

(1828〜1892)
東京遷都(せんと)
 京都は、1200年の間、天皇を中心とする日本の政治・文化の中心でした。しかし、明治政府は、新しい近代国家へ脱皮するため、江戸を東京と改称し、首都と定めました。
 伝統的な京都の産業は、衰退の危機に晒(さら)されました。急激な近代化の流れの中、京都の産業の復興を進め、教育・福祉の充実に力を尽くした旧会津藩士が山本覚馬です。失明という障害を乗り越え、京都府顧問さらには最初の京都府議会の議長を務め、近代都市京都への脱皮を導きました。

日新館蘭学所
 山本覚馬は、文政11年(1828)に米代四之丁に生まれ、9歳で日新館に入学しています。26歳のとき黒船が来航、江戸へ呼ばれた覚馬は、欧米の軍事力に衝撃を受けます。そして洋式兵学を学び、3年後に日新館に蘭学所を創設しました。

会津藩の京都洋学所
 37歳の時、京都守護職を務める藩主松平容保のため、上京します。政情不安な京都で、砲兵隊を組織する一方、洋学所を設置し、他の藩士も受け入れながら藩士の教育に取り組んでいます。しかし、時局は一転、幕府は大政を奉還し、戊辰(ぼしん)戦争へと進展します。

「管見(かっけん)
 このころ、失明状態の覚馬は、会津藩や幕府さらに他藩にまで、欧米の脅威と国内の融和を説きました。幽閉された覚馬は、国家構想ともいうべき「管見」を著します。後に、明治政府の要人らにその先見性が高く評価されました。

京都府顧問
 東京遷都によって、京都の町民の不安は暴動にまで発展しました。京都府知事は、覚馬の企画能力を評価して、顧問に迎えます。覚馬は京都舎密局(しゃみつきょく)を設置し、外国人を招き、石鹸(せっけん)・ラムネ・ガラス・写真・印刷などの技術を取得しました。また、日本最初の博覧会「京都博覧会」を開催し、国内外に京都の物産と観光をアピールしています。さらに、日本最初の小学校・中学校の創設や病院の創設なども推し進めています。

同志社大学の創設
 10年間の顧問の後、覚馬は府会議長・商工会議所会頭などを歴任、京都の振興に力を尽くしています。
 晩年は、創立に加わった同志社英学校の代理総長などを務めますが、失明と病気を患いながら、明治25年(1892)65歳で亡くなりました。

◎参考…相田泰三「維新前後の会津の人々」
◎写真:同志社社史資料室所蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷