「日蝕」
昭和11年6月19日、皆既日蝕
(かいきにっしょく)が日本列島を包みました。渡部菊次は、この幻想的な体験をもとに、文展監査展(現在の日展)に水彩画『日蝕』を出品、「頭抜けて良い」と激賞されました。
当時、ピカソに代表される造形的な表現の影響を強く受けた洋画壇の中で、水彩画は著しい停滞に陥っていました。菊次は、造形的処理と水彩画の特質を調和させたモダンな表現で、画壇に革新をもたらしました。
「後素会」
渡部菊次は、明治40年(1907)、市内竪(たて)三日町(今の行仁町)に生まれています。第五尋常小学校(謹教小学校)へ入学、その後第一尋常小学校(鶴城小学校)へ転校し、12歳で会津中学校(会津高校)へ入学しました。野球部に籍を置く傍ら、絵画クラブ「後素会」に所属し、春日部たすくと出会い、画家への夢を育(はぐく)み合います。
水彩画の会津
卒業後、代用教員をしながら、絵画サークル「彩光会」を結成、精力的に創作活動を展開しています。
当時会津からは、相田直彦が帝展(日展)で連続入賞し、さらに春日部たすくも入選を果たし上京するなど、多くの水彩画家を排出していました。菊次も、中央展で連続入選し、確かな手応えを感じます。
東京へ
26歳の時、春日部たすくの紹介で上京します。そのころ東京は、近代都市に変貌し、金融恐慌後の退廃感が漂っていました。菊次は、その時代の雰囲気を鋭く感じ取り、都会で誠実に生きる人々の姿を描きました。翌年、日本水彩画展で第一賞を受賞し、水彩画家として歩み出します。
モダニスト
29歳の時、同じ水彩画家の池田百合子と結婚しています。『日蝕』で自身の表現を確立した菊次は、女性をモデルにモダンな色彩と斬新なフォルムの作品を発表、独自のモダニズム世界の表現追及をしました。さらに33歳の時、現代水彩画の確立を目的に、春日部たすくらと水彩連盟を結成し、その普及に努めています。
白虎隊自刃之図
戦争の影が忍び寄る昭和13年、菊次は若松市から「白虎隊自刃之図」の作成依頼を受けました。約2年間かかって描き上げた80号の渾身の作品は、イタリアに送られています。
38歳の時、菊次は故郷若松に疎開し、終戦を迎えました。その後制作は中断、厳しい生活が健康を蝕(むしば)み、昭和22年4月18日、永眠しています。40歳でした。
残された作品は、百合子夫人が大切に保管し、福島県立美術館と会津若松市文化福祉センターに、寄付されています。
◎参考…「水彩画のモダニスト渡部菊次」福島県立美術館