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会津人物伝

会津が生んだ誇るべき詩人外交官
柳澤 健
やなぎさわ けん

(1889〜1953)

「花咲き乱れ 雪降りしきる 会津平野に 歳ぞつもりて われらいつしか 乙女となりぬ」
 敗戦後の新たな息吹が聞こえる昭和24年、会津女子高等学校でのこの校歌の発表式が行われました。校歌でありながら情感を湛えるこの詩は、詩人柳沢健の作詩によるものです。
 健は、珠玉の作品を創作した詩人であるとともに、日本の国際交流に大きく貢献した外交官でした。

詩集「果樹園」
柳沢健は明治22年11月3日、市内栄町に柳澤良三の6男3女の長男として生まれました。8歳で市立尋常高等小学校(謹教小学校)に入学、その後会津中学校(会津高校)に進み、「学而会雑誌」に詩や評論を発表するなど、旺盛な創作を行いました。
 20歳で第一高等高校(のちの東京大学)に入学すると、文芸ルネッサンスといわれる活動を展開。さらに、印象派の詩人三木露風に師事し、西条八十らと交流を深めています。23歳で東京帝国大学仏蘭西(フランス)法科に進み、26歳の時、自分の学生生活を実りある果樹園にたとえて編んだ、詩集「果樹園」を刊行しています。

外交官へ
 卒業後、逓信(ていしん)省(郵政省)に努めるかたわら同人誌や詩集の刊行を続け、31歳で大阪朝日新聞社の論説委員となり、文芸欄を創設し詩壇の向上に貢献しました。  その後、外交官となるため34歳で外務事務官となり、2年後に待望していたフランスに赴任。さらにスウェーデン・メキシコ・イタリア大使館などに勤務し豊かな国際性を養いました。

日本ペンクラブ
 日本は、軍国主義が強まり国際連盟を脱退し、国際社会で孤立しました。健は外務省文化事業部の課長となり、日本の国際交流に努めました。特に、日本ペンクラブを創設し、敬愛する島崎藤村を会長とし、日本文学の海外普及に尽くしています。
 52歳で外交官を辞任、日泰文化会館長に就任し、日本とタイの文化交流に努めましたが、敗戦で抑留され帰国しています。

「世界の日本社」
 敗戦後、出版社「世界の日本社」を設立、日本を代表する芸術・思想を紹介する「百花叢(そう)書『顔』FIGURES」を刊行しています。表紙をデザインした藤田嗣治をはじめ、健を巡る多彩な知識人が協力しています。

24の校歌
 晩年、健には会津地方の学校から校歌作詩の依頼が殺到し、母校の会津高校をはじめ、24もの校歌を作詩しています。
 昭和28年5月29日、帰省途中の会津若松市で、心臓麻痺のため65歳で急逝しました。

◎参考…「詩人柳沢健」小野孝尚