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会津人物伝

人物

近代柔道の礎を築いた会津人
西郷 四郎
 さいごう しろう

(1866〜1922)
「姿三四郎」
 小説「姿三四郎」は、昭和17年に直木賞作家の富田常雄によって著されました。近代日本の揺れ動く社会背景の中、主人公の三四郎が、伝統的な柔道界を、新しい技「山嵐」で活躍するストーリーは、ベストセラーとなりました。年配の方は、巨匠黒沢明監督による映画を思い出されるでしょう。
 主人公の三四郎は、会津若松城下で生まれた西郷四郎がモデルといわれています。

会津藩家老西郷家の養子
 四郎は、慶応2年(1866)会津藩士志田貞二郎の三男として生まれています。一家は、戊辰(ぼしん)の戦乱を逃れて津川(新潟県)に転居し、四郎もそこで少年時代を過ごします。16歳のとき、会津藩家老を勤めた西郷頼母(たのも)の養子となりました。

講道館
 四郎は17歳で、陸軍士官を志して上京します。ところが、身長が5尺(約150センチメートル)と小柄な体であったため、断念せざるを得ませんでした。そのころ、嘉納治五郎と出会い「講道館」に入門します。のちに嘉納は、近代日本の「柔道」の発展に指導的な役割を果たし、オリンピックなど海外への普及に大きな功績を残しています。

山嵐
 四郎は小兵ながら天性の素質と激しい稽古(けいこ)で頭角を現しました。豪快に相手を投げる独自の技「山嵐」で、四郎は柔道界の花形となります。中でも、明治19年に開催された警視庁武術大会で、照島太郎を倒し名声を上げたできごとは、後の「姿三四郎」のモデルとなりました。

大陸へ
 四郎の活躍で、嘉納の講道館は急速に発展しました。しかし、四郎は突然「支那渡航意見書」を提出し、道場を去りました。
 当時、日本は朝鮮半島を足掛かりに、中国への侵攻をうかがっており、士官志望だった四郎は、大陸に憧れました。長崎を中心に、朝鮮半島の「東学党の乱」にかかわり、「日露戦争」や「辛亥(しんがい)革命」では、「東洋日の出新聞」の編集に携わり、憂国の活動家として活躍しています。

六段を追贈
 四郎は、講道館を出てから仙台や長崎で柔道の指導をしましたが、柔道家としての活躍はありません。晩年は、神経痛を患い、大正11年(1922)妻の郷里の尾道(広島県)で亡くなりました。57歳でした。
 嘉納治五郎は、四郎の死を悼み六段を追贈しています。

◎参考…「史伝―西郷四郎の実像―」牧野登
◎写真提供…博物館会津武家屋敷