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会津人物伝

人物

会津の発展に尽力した政治作家
柴 四朗
しば しろう

(1852〜1922)

「佳人の奇遇」
 明治維新のころの日本は、ほかのアジア諸国と同じように、ヨーロッパやアメリカに侵略される危機にさらされていました。国家体制が固まろうとするこの時代、国際社会の中で、日本の国家・民族を思う多くに青年たちに影響を与えたベストセラーの「政治小説」が『佳人の奇遇』です。小説の主人公の名前でもある「東海散士(とうかいさんし)」は、旧会津藩士柴四朗のペンネームでした。

房総の会津陣屋
 柴四朗は、嘉永5年(1852)に、会津藩陣屋を敷いていた房総半島の富津(千葉県)で生まれています。藩校日新館で学び、優秀な成績で、将来を嘱望されていました。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職を拝命したため、四朗も15歳で京都へ赴きます。それから鳥羽伏見の戦いを経て、会津戦争では、籠城戦に加わっています。
 その後、東京で謹慎し、赦免後も東京に残って勉学に励みますが、学費が続かず、青森、函館などを転々とします。

西南戦争
 明治10年、西郷隆盛ら旧薩摩藩士が蜂起した西南戦争が起こると、四朗は旧会津藩の元家老を山川浩らとともに、別働隊として参戦しました。この時、弟の五郎に「今日薩摩人に一矢を放たざれば、地下に対して面目なし」と心情を伝えています。
 この戦争で四朗は、司令官干城に才能を見いだされ、財閥の援助を受けて、27歳でアメリカに留学します。

亡国の偉臣
 このアメリカ留学で四朗は、経済学・政治学などを学び、国際的な視野を養います。特に四朗は、中国や朝鮮などのアジア諸国が、ヨーロッパやアメリカに侵略される現実を憂い、小説「佳人の奇遇」を構想しています。
 この作品で四朗は、国を亡くした青年が、帝国主義の中、アメリカで民族独立を願い、苦闘する姿を描いています。そこには、自分自身が経験した会津藩の敗戦と、不毛の土地・斗南(となみ)移住という藩士たちの苦難の経験がありました。
 執筆は12年に及び、8編16巻を数えています。

衆議院議員
 帰国後四朗は、政府の秘書官となり、ヨーロッパ諸国を視察して、40歳で衆議院議員となります。その後8回の当選を重ね、会津の発展に尽力しました。「岩越鉄道」(磐越西線)の再通や、県内で最も早く開設した会津図書館の設立にも貢献しています。
 政界を退いた後は、悠々自適の生活を送り、大正11年(1922)に、伊豆の熱海別荘で亡くなっています。71歳でした。

◎参考…「近代日本に生きた会津の男たち」会津武家屋敷
◎写真:柴保二氏蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷