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会津人物伝

人物

南洋開発にかけた一生
松江 春次
 まつえ はるじ

(1876〜1954)
キング・オブ・シュガー
 南海の楽園サイパン島、戦前は5万人もの日本人が入植し、暮らしていました。日本軍が敗走したあと、アメリカ軍が「キング・オブ・シュガーの像」としてたたえ、現在も残る日本人像があります。その人物が松江春次です。春次は、砂糖製造を中心に開発事業に成功し、優れた開拓者として語り伝えられています。

松江豊寿(とよひさ)の弟
 春次は、坂東俘虜(ふりょ)収容所長として著名な松江豊寿の弟です。明治9年(1876)市内馬場町(現在の中央二丁目)に生まれ、会津中学(現会津高校)を卒業、貧しい生活のなか苦学して東京工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業しています。兄に劣らず、粘り強く勤勉な性格でした。

日本初の角砂糖
 卒業後、大日本製糖に入社し、アメリカのルイジアナ大学に留学、砂糖科を卒業しています。さらに、技術習得のためヨーロッパにまで足を伸ばし、国際的視野を持ちました。31歳で帰国し、日本初の角砂糖の製造に成功しています。

南洋興発株式会社
 製糖会社を転々とし、台湾での製糖業で大きく成功を収めました。しかし、自身が描く南洋開発の夢のため退社、サイパン島に渡りました。島では、国の入植事業に失敗した1千人の日本人が飢えていました。島の調査で製糖事業の成功を確信した春次は、飢餓を救うため南洋興発株式会社を設立、開拓に着手します。自ら陣頭で指揮にたち、資金難や病害虫などの苦難に立ち向かいました。やがて製糖事業に成功し、5万人もの入植者を迎えました。

「青年に投資する」
 成功した春次は、成金趣味を持たず質素な生活を続け、育英事業に私財を投じました。自分の苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、故郷の会津工業高校へは33万円(現在の数億円に相当)を寄付しています。同校は機械科を創設、講堂などを大増築し、多くの人材を輩出しました。

「生来無一物(しょうらいむいちぶつ)
 大戦の戦火が広がる昭和18年、春次は67歳で会社の経営を下りています。間もなくサイパンは占領され、敗戦で財産をほとんど失いました。晩年は「生来無一物」と大書し、サイパンへの郷愁を抱きながら、酒を酌み交わすことが楽しみでした。昭和29年(1954)に78歳で永眠しました。

◎参考文献…『故松江春次氏を偲ぶ』南興会
◎写真…鳴門市ドイツ館蔵