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会津人物伝

日本の宇宙物理学の先駆者
新城 新蔵
しんじょう しんぞう

(1873〜1938)

宇宙物理学
 スペースシャトルに日本の宇宙飛行士が乗り込む現代でも、宇宙物理学という分野はなじみが薄いかもしれません。この学問は、宇宙の星からその起源や構造を研究します。  大正9年、京都理科大学(現京都大学理学部)に国内で初めてこの学科が設置されています。新城新蔵は最初の講座を担当し、宇宙物理学の基礎を築きました。

新城の神童
 新蔵は、明治6年(1873)酒造業を営む新城平右衛門の六男に生まれました。6歳で若松町第一番小学校(現在の鶴城小)に入学、成績優秀で半年ごとに進級し「神童」と呼ばれました。福島中学校(現在の安積高校)を経て、15歳で仙台第二高等学校(現在の東北大学)に入学。このころの新蔵は、我慢強く、面倒見の良い優等生でした。

京都大学物理学部
 20歳で東京帝国大学理科大学物理学科入学、ドイツへの留学後に京都帝国大学教授となります。47歳の時、宇宙物理学科が創設され、講座を担当します。さらに、51歳で理学部長、56歳から4年間は京都大学の総長を努めました。
 新蔵は、国内外の重力測定や地磁気測定を行い、その恒数を求め天文学の基礎としました。また、太陽など宇宙の大気の理論的解析にも取り組んでいます。

古代天文学と「迷信」
 新蔵は自身の科学的な視点で、中国の古代天文学の研究に取り組み、天体の運行を基にした古代の暦を研究。中国年代学の科学的基礎を創り、『東洋天文学史の研究』を著しました。
 当時から庶民の間では、九星術や干支(えと)五行説をいたずらに用いる運勢や吉凶の占いが蔓延していました。科学的研究に取り組んだ新蔵は『迷信』を出版し、その誤解を解きました。この出版に対して脅迫まで受けましたが、断固、科学者たる態度を貫いています。

中国の科学の恩人
 新蔵は61歳で請われ、上海自然科学研究所長となります。中国のため研究を先頭となって進め、戦火が広がるなか研究所の資料保存のため奔(ほん)走します。しかし、昭和13年(1938)道半ばで病のため66歳で亡くなりました
 1万冊に及ぶ蔵書は、国立国会図書館に寄贈され、新城文庫と名付けられました。

◎参考文献…「福島百年の先覚者」福島県