鹿鳴館の華
明治時代の文明開化は、西洋文明を模範に、制度や文物を積極的に取り入れ、新しい風俗を生み出しました。特に、イギリス人の建築家コンドルが設計し、明治13年開館した「鹿鳴館」では、日夜、舞踏会が催されました。その華々しい時代に、アメリカ留学で教養と語学力を身につけた山川捨松は、外国人賓客を相手に、社交界を彩りました。
「捨てたつもりで待つ」
山川捨松は、万延元年(1860)に、会津藩士山川尚江の五女に生まれました。兄弟には、東京大学総長となった山川健次郎などがいます。父尚江は、捨松が生まれて間もなく亡くなり、8歳の時、母親と共に戊辰(ぼしん)のろう城戦に加わりました。敗戦で一家が離散する悲劇の中、明治政府が派遣する日本最初の女子留学生に選ばれました。母親は、わずか12歳で旅立つ娘に、「捨てたつもりで待つ」との思いを込めて、「捨松」と改名しました。
旧薩摩藩士大山巌の妻
アメリカに渡った捨松は、ニューヨーク州など、十年間にわたり留学し、23歳で帰国しました。帰国した翌年には、あたかも鹿鳴館が開館し、西洋文明を意識した社交界が華開いていきました。
そのころ、陸軍大臣として外国の賓客をもてなしていた大山巌に見初められ、25歳のときにその婦人となります。
大山は、もと、薩摩藩士で、会津攻めの砲隊長として、小田山から城を砲撃した人物でした。身内から周囲から強い反対を受けましたが、大山の熱心な申し入れに引かれ結婚しました。
篤志看護婦人会
捨松は、留学中に看護学を学び、看護婦の資格を取得していました。そのため、日本で初めてナイチンゲールの近代看護教育を系統的に行った、有志共立東京病院(現東京自慈会病院)の看護教育所の創設に尽力しています。また日本赤十字社に働きかけ、日露戦争の傷病者のため篤志看護婦人会を発足させるなど、慈善活動を行いました。
家庭では、大山家に先妻の遺児3女がおり、捨松も2男1女に恵まれ、6人の子どもを育て上げました。
大正8年(1919)に、大流行したスペイン風邪(スペインから世界に広がったインフルエンザ)がもとで亡くなりました。59歳でした。
参考…小島一男「会津女性人物事典」