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会津人物伝

鉄道開通にかけた一生

日下 義雄
くさか よしお

(1851〜1924)

SLの汽笛が響く
 若松と郡山の間を初めて、汽笛を響かせ蒸気機関車が走ったのは、明治32年(1899)7月15日のことでした。プラットホームには彼岸獅子の囃子(はやし)が鳴り、市内の各町内では山車(だし)が繰り出し、町中喜びに沸きました。以後、漆器や陶磁器、酒などの地場産業は、販路を拡大し、飛躍的な発展を遂げました。鉄道はばく大な設備投資を必要とします。日下義雄は、地元の資本家らと共に、「岩越鉄道株式会社」を設立し、民間資本で鉄道を開通させました。

会津藩士「石田五助」
日下義雄は本名を石田五助と言い、嘉永4年(1851)、会津藩の医師石田龍玄の長男として生まれました。戊辰(ぼしん)戦争では、幕臣の大鳥圭介たちと行動を共にし、落城前に会津を脱出。箱館戦争に加わりました。捕虜となり赦免された後は、会津出身を隠すため日下義雄と改名。明治政府の要人井上馨の知遇を得ます。

福島県知事
 明治4年、井上の推薦で岩倉欧米使節団に同行し、アメリカに留学します。一度帰国しヨーロッパを視察。ロンドンで経済学を研究しました。帰国後は内務省などに勤め、手腕を発揮。長崎県知事を経て、明治25年に福島県知事になります。

岩越鉄道株式会社
 明治20年、日本鉄道会社が東京から仙台までの鉄道を開通させました。そのため会津の鉄道熱も高まり、明治24年には岩越鉄道期成会が組織されます。鉄道敷設法による整備が国により始まりますが、第一期の整備から漏れてしまいます。  福島県知事になった義雄は「鉄道なくして、会津の発展はない」の信念を持ち、独力の民間資本で鉄道建設に取り組みます。
 地元経済人たちと計画を練り会社設立を進め、設立の仮免許を受けます。株主を募集し、渋沢財閥を築いた渋沢栄一など、大実業家の協力を取り付け、岩越鉄道株式会社を設立。明治30年に工事に着工し、明治32年に開通しました。5年後には喜多方まで延長。明治39年には鉄道国有法により、岩越鉄道は国に買収され、その役割を閉じました。

衆議院議員
 開通の年、義雄は豊富な海外経験を買われ、すでに知事から弁理公使(外国大使)となっていました。さらに若松から衆議院議員に2回当選し、大正12年に73歳で亡くなりました。

◎参考…小島一男「会津人物事典(文人編)」