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会津人物伝

女性の擁護と救済に尽くした一生

木村 貞子
 きむら さだこ

(1855〜1938)
子守学校
 明治政府は、明治5年(1872)に「学制」を公布し、教育改革を行います。その基本は、欧米を見習い、男女に教育の機会を均等に与えることでした。しかし、多くの女子は、自分の弟妹の子守や貧困のため奉公に出されるなど、社会的に通学が困難でした。
 このような女子の教育・保護のため、明治35年(1902)に「若松子守学校」が創立されています。木村貞子は、その母体となった「会津婦人会」を設立し、社会的に立場の弱い女性の擁護と救済に尽くしました。

瓜生岩子との出会い
 木村貞子は、安政2年(1855)に市内の仏門の家に生まれ、若くして厚い信仰心を持っていました。また、熱塩加納村出身で「日本のナイチンゲール」と呼ばれる瓜生岩子を尊敬していました。岩子は、明治20年ごろから貧民救済の全国的な活動を展開し、多くの共鳴者を得ていました。

会津婦人会
 岩子を慕う貞子は、46歳の時、慈善運動のため「会津婦人会」を市内満福寺で設立します。婦人会は、貞淑の美徳を涵養することを目的としていました。翌年、婦人の修養と同胞の救済のため、保育活動として「若松子守学校」を開設。家庭や経済的理由で通学できない子女のため、保護活動を始めました。当時、福島では「福島瓜生会」の信夫柳太郎らが「福島保嬰(ほえい)学校」を、郡山では「郡山子守学校」が開設されています。

隣保館(りんぽかん)の建設
 子守学校から始まった活動は次第に広がり、大正14年、創立25周年を記念して保育事業を開始します。これは、児童福祉を目的とする保育園の始まりとなりました。始めは市内の幼稚園に委託していましたが、栄町に借家し独立。その後、児童数の増加で手狭になったため、会員の積立や寄付で、昭和11年、山鹿町に「隣保館」を建設します。昭和33年には社会福祉法人の認可を受け、「会津婦人会保育園」となりました。同じころ、南町の観音講が母体となり「南町保育園」も始められています。

「みなれさを」
 「会津婦人会」を指導した貞子は、常に控えめな態度で、自分自身は表に立つことなく会員を指導しました。昭和13年、84歳の時、北小路町の自宅で没しています。著書に「みなれさを」が残されています。

◎参考…「会津女性人物事典」小島一男