漆の木
漆の木は、その樹液が漆器に塗られ、実を絞るとろうそくの原料となる漆蝋
(うるしろう)がとれます。そのため、会津藩では重要な産物として、山役所に漆木
(うるしぎ)役を設け、漆の栽培を奨励していました。
明治維新後、山林も課税対象となり、個人の所有が証明されない山林は国有地となり、漆の栽培は急速に衰退しました。
初瀬川健増は、漆の木の有用性を説く一方、その研究・普及に努めました。
肝煎(きもいり)初瀬川家
初瀬川家は、小谷(おや)村(現在の大戸町小谷)で村方役人の肝煎を勤める家柄でした。建増は嘉永4年(1851)に生まれ、17歳で肝煎となり会津藩の蝋漆(ろううるし)取締役も勤めています。
栽培の研究と普及
戊辰(ぼしん)戦争後、漆の栽培は会津藩の保護制度が無くなり著しく衰退しました。その衰退を危惧した建増は、「漆蝋制度秘書」を著し、漆の有用性を説き、さらに「漆樹(うるしじゅ)栽培書」によりその普及を図りました。建増の栽培普及は、日本はもとより国外にまで及び、明治22年のパリ万博や明治24年のシカゴ万博には漆器などを出品し、褒(ほうしょう)章を受けるまでに至っています。
中国への調査
会津の漆器産業は、明治10年前後には輸出産業として著しい復興をみせ、明治20年代には大きく発展しました。漆器産業の復興と発展は、原料である漆の液の需要をもたらしました。良質の会津産の漆ではまかないきれず、他の地域に頼らざるを得なくなりました。特に、中国は漆の液の一大供給地となり、国内の産地を脅かしました。そのため、健増は55歳の時中国へ渡り、1年間にわたって栽培と掻き取り法を詳しく調査研究し、国内産漆の改良に努めています。
初瀬川文庫
健増は村長・郡会議員などを歴任し、国有林野の引き戻し運動や独力による小谷つり橋架橋など、地域の発展に尽くす一方、社会福祉施設会津児童園の設立に協力するなど、慈善事業にも取り組んでいます。
もともと研究熱心であった健増は、全国的な視野に立ち漢書や農業書などの収集にも力を注ぎ、3万冊に及ぶ「初瀬川文庫」を設けています。
晩年は、これらの資料の整理と研究に没頭しながら、大正13年(1924)73歳で亡くなりました。
◎…参考資料…「福島百年の先覚者」福島県