『花嫁のベール』
「われはきみのものならず、私は私のもの、夫のものではない。あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んで行く。私の白いベールの下にあるこの翼を見よ」
明治22年、賤子は夫となる巖本善治
(いわもとぜんじ)に、結婚式でこの詩を送りました。封建的で女性の社会的地位が低い時代、賤子は女性の自立と男女平等を宣言しました。
孤児から養女へ
賤子は、元治元年(1864)に会津藩士松川勝次郎の長女として、市内阿弥陀町(現在の宮町)に生まれ、甲子(かし)と名付けられました。4歳のとき戊辰(ぼしん)戦争を体験し、敗戦後、父親は斗南(となみ)へ移住し行方不明となり、残った母親を病気で失い孤児となりました。たまたま、商用で若松に来ていた織物貿易商の手代(てだい)大川甚兵衛の養女となり、賤子は横浜で育ちました。
宣教師の教育
7歳で、日本最初の女性宣教師キダーが開く英語塾に入学しますが、養父の経済的事情で一時中断します。塾が寄宿制のフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)として再開されると、賤子は復学して18歳で卒業しました。成績優秀な賤子は母校の和文教師となります。
神のしもべ
賤子は、教師のかたわら文学会をつくり執筆活動を始めます。幼くして身寄りを無くし、思春期に宣教師の教育を受けた賤子は、13歳で洗礼を受けていました。ペンネームの「若松」は故郷にちなみ、「賤子」は神のしもべという意味でした。22歳のとき、巖本善治が主宰する「女学雑誌」への寄稿がきっかけとなり、二人は教会で結婚しました。
易(やさ)しく美しいことば
退職した賤子は、夫が主宰する明治女学校で教べんを取りながら、次々と創作や翻訳を発表しました。中でも、アメリカの女流文学作品の翻訳「小公子」は、45回の連載で高い評価を得ました。当時は、そうろう文に代表される難解な表現でしたが、賤子の日常の会話を用いた易しく美しい日本文体は、樋口一様をはじめ、新しい表現を模索していた日本の文壇に多大な影響を与えました。また、日本文化を英文で海外に紹介し、国際的な相互理解にも努めています。明治29年女学校が失火で焼け落ち、結核を患っていた賤子は焼け出され、5日後に無くなりました。32歳という若さでした。
◎参考・・・小島一男「若松賤子『会津女性人物辞典』」
◎写真:フェリス女学院蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷