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会津人物伝

人物

鶴ヶ城趾保存の恩人
遠藤 敬止
 えんどう けいし

(1851〜1904)
鶴ヶ城の払い下げ
 明治元年(1868)9月、名城鶴ヶ城は1ヶ月の籠城戦を戦い抜き、開城しました。明治7年、城内で20日間の博覧会が開かれ、市民に公開後すべての建物が取り壊されました。「荒城の月」に歌われる廃城となった城跡も、明治23年に払い下げが決定しました。旧会津藩士遠藤敬止は、城跡を一括して保存するため、私財2,500円で払い下げを受け、旧藩主松平家に寄付しました。
 昭和2年(1927)に松平家から若松市へ譲り渡された鶴ヶ城跡は、城下町会津若松市のシンボルとして、市民を初め会津の人々の誇りとなっています。

英語を学んだ会津藩士
 遠藤敬止、嘉永4年(1851)会津藩士遠藤清直(きよなお)の長男として江戸の会津藩邸に生まれました。若くして才能を認められ、幕府が開設した開成所(かいせいじょ)に入学し英語を学びました。
 戊辰(ぼしん)戦争が始まると、18歳の敬止は藩に従い転戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりました。負傷して捕らえられ、開城後は江戸に幽閉されましたが、翌年に赦免されています。

第七十七銀行頭取
 生活のため、英語教師として早稲田北門舎や久留米中学に勤めながら独力で勉強に励みました。さらに、欧米を見習った日本の資本主義化のため経済学の必要性を感じ、慶応義塾に入学し、簿記や経済学を学んでいます。
 大蔵省銀行事務講習所が創立されると、敬止は簿記の講師となりました。簿記実習の標本機械や為替手形類標本の作製、普及に努めるかたわら、「銀行実験論」の翻訳も残しています。
 国立銀行条例の改正で銀行の設立が進み、明治11年(1878)仙台に第七十七銀行が設立され、頭取となりました。また、仙台商法会議所会頭や仙台市収入役などを務め、経済人として活躍しています。
 明治37年(1904)、55歳で亡くなりました。

千古の記念
 敬止は「城跡には、戊辰戦争で亡くなった幾千もの魂が残っている。保存して千古の記念とすべきである」として、払い下げを受けました。
 昭和46年、鶴ヶ城北出丸に、鶴ヶ城保存の恩人として「頌徳(しょうとく)碑」が建立され、毎年、遠藤敬止顕彰会による慰霊祭が行われています。

◎参考…「鶴ヶ城趾保存の恩人遠藤敬止翁」相田泰三
◎写真…「会津大辞典」より転載