最初の幼稚園
明治26年(1893)まだ若松町であった会津若松市は、戊辰
(ぼしん)の敗戦の影が残り、近代化を模索していました。身分制度が廃止されたとは言え、女性の社会的地位は低く、封建的な考えが色濃く残っていました。この年、最初の幼稚園「私立若松幼稚園」が、旧甲賀町(現在の市役所栄町第一庁舎)に、園児8人で開園しました。また、その片隅に「私立若松女学校」が創立され、会津女子高校の前身となりました。
海老名リンは、この創立に力を尽くし、会津の幼児教育、女子教育の礎
(いしずえ)となりました。
会津藩家老の妻
リンは、嘉永2年(1849)旧小田垣(現在の城東町)で会津藩士の二女に生まれ、17歳で海老名季昌(すえまさ)と結婚しました。
季昌は、戊辰戦争で家老を務め、敗戦後、東京で謹慎を命じられています。リンは、旧藩士の家族と共に下北半島「斗南(となみ)藩」へ移住し、日々の食べ物にも事欠く、苦難の生活を強いられました。
季昌は、謹慎を許されると、一次青森県に務めますが、再上京し、間もなくリンと家族も上京しました。
東京婦人矯風(きょうふう)会
季昌は、警視庁から山形県や福島県の郡長などを務めた後、警視庁に戻りました。リンもそれに伴い転居し、37歳の時再び東京に帰りました。
リンは、在京の旧藩士の婦女をとおして、キリスト教を中心に、婦人の地位向上のための社会活動に触れ、39歳で洗礼を受けました。その後「東京婦人矯風会」に加わり、後に副会頭となります。
幼児・女子教育の母
社会活動をとおして、友人から幼稚園の経営を依頼されたリンは、人間形成が行われる幼児教育とその母となる女子教育の必要性を感じました。42歳で保母の資格を取得し、45歳の時、夫季昌の辞職で故郷の若松に帰り、念願の「私立若松幼稚園」を開きました。
苦しい経営の中、2年後には第1分園、さらに第2分園を設け、幼児教育に力を注いでいます。また、若松女学校は、明治42年(1909)に県立高等女学校となりました。
リンは、過労のため結核を患い、この年、61歳で亡くなりました。
◎参考文献…会津史談55「海老名リンの生涯と精神」玉川芳男
◎写真…若松第一幼稚園蔵