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会津人物伝

人物

第9代若松市長
板東俘虜 (ばんどうふりょ) 収容所長

松江 豊寿
 まつえ とよひさ

(1872〜1956)
「第九」初演の地
 大正7年(1918)第一次世界大戦が終結しました。この戦争で日本は、ドイツ軍が占拠していた中国青島に出兵し、多数のドイツ兵を拘束しました。国内には、俘虜(捕虜)収容所が設置され、その一つに現在の徳島県鳴門市の「板東俘虜収容所」があります。終戦の年の6月1日、収容所のドイツ兵による「徳島オーケストラ」が、ベートーベン作曲の交響曲第九番を日本で初めて演奏しました。

ドイツさん
 収容所は、レストランやボーリング場など80軒もの店小屋が建ち並び、テニスや海水浴、演劇などの活動、そして広報紙の発行が行われ、開放的で活気にあふれていました。
 ドイツ兵の持っていた菓子作りや農産物の栽培加工、建築設計などの技術は地域の人々に伝授され、住民は「ドイツさん」と呼び、心通う交流が行われました。

斗南 (となみ) の生活
 豊寿は、明治5年(1872)6月6日に旧会津藩士松江久平の長男として生まれています。本籍地は旧馬場下五之町で、現在の高巌寺の東側にあたります。久平は、戊辰(ぼしん)戦争の敗戦後、青森県下北半島の斗南藩に移住しました。この不毛の土地では、困窮した生活を強いられ、その苦難を久平は子どもへ語り伝えました。

武士の情け
 16歳で陸軍幼年学校に入学した豊寿は、軍人としての道を歩み、大正6年(1917)44歳の時、この収容所の所長となります。豊寿は「ドイツ兵も祖国のために戦ったのだから」と敬意を表し、「武士の情け」を口癖にし、俘虜を信頼した自主性を尊重する寛容な態度を貫きました。
 退役後は、求められて第9代若松市長となり、上水道の敷設に尽力しました。昭和31年(1956)82歳で亡くなりました。

第二の故郷
 晩年、豊寿は、板東を理想を追うことができた「第二の故郷」と回想しています。
 「板東俘虜収容所」は、世界的な視野での価値観が求められる現在、国際交流や地域間交流のあり方から再評価されています。
 鳴門市では「鳴門市ドイツ館」を建設し、毎年6月には「歓喜の歌」が高らかに歌われています。

◎参考文献…「板東俘虜収容所」研究(鳴門教育大学)
◎写真…鳴門市ドイツ館蔵