公開日 2024年07月24日
更新日 2024年08月01日
令和6年7月5日(金)から8日(日)まで、会津若松市市民親善交流事業に65名の市民の皆様とともに参加してまいりました。
今回は、戊辰戦争の終結地である北海道函館市と、旧会津藩士・丹羽五郎(にわごろう)が建立した「白虎隊遥拝所」がある久遠郡せたな町、旧会津藩士・高橋常四郎が私学振興や和歌の普及に尽力した地であり、また旧会津藩士・簗瀬真精(やなせしんせい)が行政の基礎を作り上げた岩内郡岩内町、西南戦争で戦死した旧会津藩士を含む屯田兵の慰霊碑や屯田兵の心の拠り所となっていた琴似神社がある札幌市を訪問しました。
また、8日(日)の午後から稚内市、9日(月)は利尻富士町、利尻町を訪問し、会津藩士のお墓参りをしてきました。
1 函館市(碧血碑・実行寺・称名寺・高龍寺)
碧血碑(へっけつひ)
碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものです。戊辰戦争、特に函館戦争で戦死した土方歳三ら旧幕府軍戦死者約800名を慰霊する碑名として用いられました。終戦後、新政府軍は旧幕府軍戦死者の埋葬を許さず、任侠の柳川熊吉は実行寺住職の日隆らの協力を得て、打ち首を覚悟しながらも町中に放置されている遺体を回収し、函館山山麓に土地を購入し、実行寺などに収めていた遺体を改葬しました。7回忌にあたる明治8年(1875)、旧幕府軍の中心メンバーであった大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て碑が建てられました。毎年6月25日ごろに旧幕府軍の法要が碧血碑前で営まれています。
実行寺(じつぎょうじ)
函館戦争で戦死した会津藩遊撃隊長 諏訪常吉や、同じく幕府軍の砲兵隊指図役 諏訪部信五郎の墓のほか、榎本軍80余名を供養するために会津藩士 澤田光長が建立した「徳川藩士戦死之霊碑」などがあります。
称名寺(しょうみょうじ)
函館戦争時には新選組の屯所が置かれていました。境内には地元住民が建立した、新選組隊士の土方歳三、粕谷十郎、小林幸太郎、野村義時、栗原仙之助の名前が刻まれた供養碑があります。
高龍寺(こうりゅうじ)
五稜郭決戦時に負傷した榎本軍の兵士らが収容されていましたが、そこへ新政府軍の先鋒隊が乱入し、負傷者を斬殺して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲になりました。その霊を供養するため、明治13年(1880)に旧会津藩士有志らによって「傷心惨目」碑が建立されています。
2 せたな町(旧会津藩士 丹羽五郎ゆかりの地)
旧会津藩士 丹羽五郎は会津戦争、西南戦争を経て警視庁に勤務するも北海道の原始林に挑む「北海道開拓による理想郷建設」実現のため、20年にわたる警視庁の職を辞し、明治25年(1892)に渡道、人跡未踏の原始林と戦い、移民を叱咤激励、公共事業にも熱意を注ぎ、「理想郷 丹羽村」を創出しました。丹羽村では昭和16年に丹羽村建村50年祭を行うとともに、丹羽村開拓の祖「丹羽五郎翁頌徳碑」が建立され、また、昭和36年にはその横に開基70周年を記念して、丹羽五郎の徳を偲び「丹羽五郎翁胸像」が建立されています。
会津白虎隊遥拝所(あいづびゃっこたいようはいじょ)
丹羽五郎が飯盛山に散った白虎隊士19名の霊を弔い、郷里の白虎隊魂を子々孫々に伝えるべく玉川公園内に建設したものです。戊辰戦争当時、丹羽五郎は14歳だったため、白虎隊に入隊できませんでした。白虎隊士の永瀬雄次と有賀織之介は丹羽五郎の従兄弟にあたります。
3 岩内町(旧会津藩士 高橋常四郎・簗瀬真精(やなせしんせい)ゆかりの地)
旧会津藩士 高橋常四郎
常四郎は、幕末時には京都守護職常詰隊の任に就き、禁門の変では黒谷本陣を守護。鳥羽伏見の戦いの後、会津へ撤退し、会津戦争では青龍隊小隊頭として守備に就く。戦後、上越高田を経て斗南の地から単身で山越長万部に渡り、その後、岩内郡副戸長、岩内私学校などに奉職し、この地の私学振興や和歌の和歌の普及に尽力しました。昭和39年(1964)5月に町内の大和公園内に頌徳碑が建立されています。
旧会津藩士 簗瀬真精
真精は、戊辰戦争後、北海道開拓使に出仕し、明治13年(1880)に岩内古宇郡の初代郡長となり、岩内町行政の基礎を作り上げました。明治39年(1906)に建てられた書院風隠居邸は歴史的建造物の価値を誇るだけでなく、開拓使の辞令や松平容保からの書状など多岐にわたる文書も遺され、貴重な資料となっています。
4 札幌市(札幌護国神社・飯沼貞吉ゆかりの地碑・琴似神社)
札幌護国神社
明治10年(1877)の西南戦争で戦死した旧会津藩士を含む屯田兵が慰霊されています。
飯沼貞吉ゆかりの地碑
飯沼貞吉は、飯盛山で自刃した白虎隊士で唯一生き残った隊士です。明治38年50歳のとき、仙台から札幌郵便局工務課長として札幌に赴任し、電話交換機の取り替え工事や電信電話線の架設、無線電信局の建設などで道内各地を歩き、5年間にわたり北海道全道の電気通信の発展に尽くしました。平成元年(1989)にNTTと北海道会津会の尽力で、こうした功績を称える記念碑が居住地跡の一角に建てられました。
琴似神社
明治8年(1875)、北の守りと拓殖、地方警備と士族の授産を進めるために、琴似屯田兵村に208戸、翌9年春に32戸が入植し、合わせて240戸(うち旧会津藩(斗南藩)は55戸)が原始未開の地を開墾しました。入植地には屯田兵の心の拠りどころとなっていた琴似神社があり、神社の境内には今も開拓時代の屯田兵屋が文化財として保存され、琴似屯田兵子孫会により守られています。また、平成6年(1994)には同神社に会津藩祖 保科正之公ゆかりの土津霊神も合祀され、土津神社とのつながりもあります。
5 稚内市(宗谷歴史公園)
文化5年(1808)、開国・通商を求め、実力行使に出てきたロシアからの脅威に備えるため、幕府の命により会津藩が1,600余名の藩士たちを派遣し、うち370名が宗谷で警備にあたりましたが、予想以上の寒さに加え、野菜不足等が原因で起こる水腫病などにより多くの藩士が亡くなりました。宗谷公園内には、かつて点在していた藩士や幕府関係者のお墓が集められ、地元の皆様により毎年慰霊祭が執り行われています。
稚内市工藤市長をはじめ、稚内市議会鈴木議長、宗谷地区連合町内会相原会長、稚内福島県人会阿部会長、門間副会長には、日頃よりお墓を慰霊・保護・顕彰いただいていることに対し、心より御礼を申し上げ、併せて懇親を深めてまいりました。
6 利尻町(種富)・利尻富士町(ペシ岬、本泊)
文化5年(1808)、幕府による北方警備の命により、250余名の会津藩士が利尻島の警備につきましたが、厳しい自然環境や食料不足などから、志半ばで命を落とした藩士もいました。現在、島内には会津藩士のお墓が8基(利尻町2基、利尻富士町6基)残されており、地元の皆様により毎年供養・慰霊祭が執り行われています。
利尻町上遠野町長、利尻富士町田村町長をはじめ、利尻町議会藤井議長、利尻富士町議会飯田議長、地元ロータリークラブの皆様には、日頃よりお墓を慰霊・保護・顕彰いただいていることに対し、心より御礼を申し上げてまいりました。
あとがき
戊辰戦争終結地である北海道函館市と今回が初めての交流となったせたな町、そして岩内町、札幌市、稚内市、利尻町、利尻富士町と、北海道にある多くのゆかりの地を訪問することが出来、大変意義深い訪問となりました。
函館市では大泉市長や函館市議会吉田議長と歴史的なつながりを再確認しつつ、今後の経済交流の推進に向けて懇親を深めることができました。せたな町では今回の訪問に合わせ、歴史的なつながりを記したパンフレットを新たに作成・配布いただくなど、地域を挙げて会津とのつながりをとても大事にしていただいており、また、岩内町、札幌市でも、当時活躍した数多くの会津藩士たちの顕彰等にご尽力いただいていることに、大変感銘を受けました。
稚内市、利尻町、利尻富士町では「会津藩北方警備ゆかりの地交流都市共同宣言都市」として、各首長と改めて共通の歴史を礎とした相互交流と、引き続き友好関係を深めていくことを確認することができました。
今回お伺いした、会津とゆかりのあるお寺や神社等におきましても、その都度、地元の方から歴史的なつながりについて大変丁寧にご説明をいただいたことで、先人の偉業を知るとともに、未開の地で活躍した先人たちの力強さ、不屈の魂を感じることができました。
改めて会津の先人たちの足跡やお墓などの顕彰・保存等にお力添えをいただいている函館市、せたな町、岩内町、札幌市、稚内市、利尻町、利尻富士町の全ての皆様に心より感謝申し上げますとともに、先人が築いた絆によるご縁を大切にしながら、自治体同士はもちろんのこと、民間も含めて引き続き様々なかたちで相互交流が図られることを期待しております。
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