公開日 2025年04月01日
更新日 2025年04月01日
平成28年10月1日(土)~5日(水) 北海道函館市や余市町、稚内市、札幌市を訪問してきました。
今回の北海道訪問は、第17回を迎えた親善交流事業として、90名を超える市民訪問団とともに函館市、余市町を訪問したほか、3日目からは訪問団から離れ、会津藩北方警備ゆかりの地交流都市の稚内市と、会津藩士が琴似屯田兵として入植した札幌市を訪ねました。
初日の函館市においては、市民の方々と一緒に旧幕府軍の戦没者慰霊碑である「碧血碑」や高龍寺の「傷心惨目の碑」などをめぐり、2日目には余市町に眠る会津藩士の墓参や会津藩士が栽培に成功したりんご「緋の衣」の原木を見させていただいたほか、余市町の方々と交流を深めて参りました。余市町は、会津藩士が入植した縁で、平成27年10月に会津若松市と「親善交流都市」の盟約を締結した都市です。
3日目は、 会津藩北方警備ゆかりの地交流都市の稚内市長を表敬訪問するとともに遠く宗谷の地に眠る会津藩士の方々の墓前に花を手向けて参りました。
本来ですと、利尻富士町、利尻町にも渡って墓参をする予定でしたが、荒天によるフェリー欠航で、急遽予定を変更し、札幌市琴似地区を訪ね、屯田兵たちの軌跡を辿ってきました。
以下に、会津若松市と北海道のゆかりの地を巡った様子を紹介します。
1 ~碧血碑~

碧血碑(へきけつひ)は、箱館戦争で命を落とした旧幕府軍の戦没者約800名を供養するために建てられた碑です。1875年(明治8年)に、柳川熊吉が旧幕府軍の中心メンバーであった大鳥圭介や榎本武揚らの協力を得て建立したものです。碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は、3年たつと碧色になる」という中国の故事によるものです。
碑の傍らには、この地に眠る会津藩士のために、松平勇雄福島県知事が昭和55年に献樹されたベニサラサドウダンが大きく成長していました。
函館を訪問した初日、10月1日に、会津若松市民の皆さんとともに藩士たちの冥福を祈ってまいりました。
2 ~高龍寺の傷心惨目の碑~

高龍寺の境内に建つ「傷心惨目の碑」(しょうしんざんもくのひ)は、明治2年5月11日の五稜郭決戦のときに箱館病院分院となっていた高龍寺に収容された旧会津藩士が新政府軍の攻撃を受け殺傷されたことの供養をするために建立された供養碑です。1880年(明治13年)に旧藩士有志により建てられました。
「傷心惨目」とは、古戦場を弔う中国唐の文人のことばで、また、碑には「会津残同胞共建」(会津残同胞 共に建つる)と記されています。
毎年5月に、函館福島県人会の皆様により法要が営まれています。
今回は会津若松市民訪問団の皆さんといっしょに、碑前に祈りを捧げてまいりました。
3 ~余市町にある会津藩士の墓墓参~

この碑は、余市に入植した旧会津藩士の慰霊のために、明治23年に鈴木半兵衛兼友氏が建立した碑です。当時は正面に「志業永伝」の文字と由来が記載された銅板がはめ込まれていましたが、銅板が盗難にあい、その後、昭和60年に関係の方々によって元々の石碑を基礎として再建されたものです。
周辺には、旧藩士やその子孫の墓をはじめ、日本初のウィスキー作りに成功したマッサンこと竹鶴政孝・リタさんの墓もありました。
4 ~吉田農園のりんご「緋の衣」の原木の前で~

古くからりんごの産地として有名な余市町ですが、この「余市りんご」は、明治期に入植した旧会津藩士たちが苦難の末に栽培に成功した、日本初の「緋の衣」に始まりました。
マッサンが興したニッカウィスキーは、昭和9年に創業した前身の「大日本果汁株式会社」が地元の余市りんごを使ったジュースづくりでウィスキー醸造の事業を支えたのです。
「緋の衣」の品種は、余市町の吉田農園様によって今日まで守り続けていただいております。
写真の中央は、吉田家の3代目吉田初美様、左端は4代目の吉田浩一様です。
長年にわたり歴史をつないでいただいた吉田様親子と原木に会うことができ、胸が熱くなりました。
5 ~ニッカウヰスキー工場余市蒸留所にて~

連続テレビ小説「マッサン」で脚光を浴びた余市町にある「ニッカウィスキー工場余市蒸留所」。竹鶴政孝さんはりんごジュースの販売を支えとしてウィスキーづくりを成功に導きました。ウィスキーをはじめ、アップルワインやアップルジュースなども販売されており、NHKの放送以来、多くの観光客が訪れています。
6 ~余市町の皆さんとの交流会の様子~

上の写真左から、小林正一訪問団長、私、嶋余市町長、水野隆志余市町福島県人会長さんで記念品の交換を行いました。交流会の中では、嶋町長と今後の交流に向けて固い握手を交わしてきました。
下の写真、交流会の最後には、余市町と会津若松市の皆さんで会津磐梯山を踊り、大変盛り上がった交流会となりました。
7 ~稚内市長を表敬訪問~

1808年(文化5年)、開国・通商を求めるロシアの脅威に備えるため、会津藩から1,600余名の藩士たちが幕府の命により樺太・宗谷・利尻の地の警備を行いましたが、水腫病などにより50余名が異郷の地で帰らぬ人となりました。
このような歴史を末永く継承し、また会津藩士たちを顕彰するため、平成20年7月、稚内市、利尻富士町、利尻町と会津藩北方警備ゆかりの地交流都市の共同宣言を行っています。
今般、目黒会津若松市議会議長とともに稚内市の工藤市長、中井議会議長を表敬訪問し、これまでの御礼を申し上げ、また今後の両市の相互交流、発展に向けた意見交換をさせていただきました。
8 ~稚内市宗谷地区に残る会津藩士の墓~

稚内宗谷地区には、会津藩北方警備で殉じた藩士たちの墓が3基あり、地元の宗谷地区連合町内会の人たちによって大切に守られています。
当日はあいにくの雨模様でしたが、先人の御労苦に思いをはせるとともに、墓前に献花させていただき、ご冥福を祈ってまいりました。
今回、利尻富士町、利尻町へも渡航を予定しておりましたが、荒天のため訪問が叶いませんでした。
3市町では、藩士たちの墓が200年以上経った今でも大切に管理されており、心より感謝申し上げるものです。
9 ~琴似屯田兵村兵屋の視察~

札幌市にある琴似地区は、明治初期に旧会津藩士らが屯田兵として入植した地です。
琴似神社境内に移築・復元された琴似屯田兵屋を、菅原正文宮司に説明いただきながら視察してきました。
また、旧会津藩士の子孫である永峰貴さんから、琴似地区内にある屯田兵村跡もご案内いただきました。
~あとがき~
昨年締結した余市町を多くの市民の皆様とともに訪問することが出来、また、なかなか叶わなかった稚内市をはじめ北海道のゆかりの地を巡ることができ、大変意義深い訪問となりました。
平成30年には、戊辰150周年を迎えますので、このたびの交流を契機として、さらなる相互交流に繋げて参りたいと思いを強くした次第です。
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