永和の暮らしと歴史

2016年12月26日

  北公民館は、会津若松の市街地北部、磐越自動車道・会津若松インターの西側に位置しています。主な区域は、町北町・高野町・神指町であり、周囲は、水田地帯の農村部です。とくに、町北町と高野町の区域は、小学校の名から永和地区と呼ばれています。そこで、永和小学校の卒業生を主に、人々の暮らしと歴史を学習、調査・研究し、その成果を書籍等の記録として刊行することを目指し、始まったのが「永和の暮らしと歴史」講座です。講座では、調査成果を広く公開して地区民をはじめ、人々の学習の一助となるよう進めています。また、永和地区に住む人々みずからが、地域に歴史に目を向け、地域の良さを再確認してもらうために「永和の暮らしと歴史研究会」が組織さ れ、活動の中心となっています。

「永和」のゆらい

  永和地区は、会津若松市町北町と高野町とを合わせた地域です。明治22年(1889)、当時の福島県北会津郡町北村と高野村とが合併し、「栄え和が続くように」と「栄和村」が誕生しました。しかし、明治24年に栄和村議会で問題が発生し、栄和村議会の補欠選挙や村長選挙で旧町北村と高野村が対立、明治26年6月とうとう栄和村は分裂しました。合併直後の明治22年4月には「栄和小学校」が開校し、村が分裂しても存続していました。そして、学校だけは、共同で運営することとなり、「栄和」の字を使用することは嫌われ、明治27年1月、町北村と高野村で話し合って学校組合として継続し、「えいわ」の呼び名を残し、「栄」の字を「永」に替え「永く和が続くように」と願いを込めて「永和」とし、4月に「永和尋常小学校」が誕生しました。今でも、永和小学校へ通学しているのは、町北町と高野町に住む児童たちです。学校の校章は、明治時代に、酒米として高野町の大字柳川を中心に栽培され、全国的に知られるようになった「亀の尾」「京の華」にあやかり、稲穂をイメージして作られています。

永和地区の歴史

  永和地区は、「会津アピオ」のある屋敷遺跡の発掘調査などから約3千年前から人が住んでいました。約2千年前の弥生時代には、上高野の大天白神社境内にある上高野貝塚が営まれます。6世紀には、円墳の木流古墳が上沼に築かれます。平安時代に入ると、各地に大規模な集落が出現します。吉田の矢玉(やだま)遺跡、上吉田遺跡、西木流遺跡、会津アピオの屋敷遺跡、下高野の下高野遺跡などで、大規模な集落が集中しているのは珍しいことです。そのころ付けられたのが「高野」の地名で、平安時代初めに開発された場所を指します。吉田の矢玉遺跡からは、「白早稲」「荒木」「足張」「長非子」といった種籾(たねもみ)の品種を書いた木簡が出土し、「白早稲」は、明治時代までその品種は継続し、「亀の尾」となり、それが農林1号となります。界沢の東高久遺跡では、会津郡の下部組織であった「郷」の一つ、「多具郷(たぐごう)」の集落跡が見つかっています。
 鎌倉時代になると、葦名(あしな)氏の支配下に入り、館が築かれます。木流、西木流、平塚、界沢、沼木、中前田、中地、平沢、中ノ明に館がありました。木流の穴沢氏は、裏磐梯の桧原を本拠地とする一族の分家で、伊達政宗に1589年に攻められ村は焼かれます。下高野は、政宗に焼かれますが、その後、政宗の乳母の寺が建てられています。上吉田では、戦国時代の茶臼や東日本唯一、天目茶碗を焼いた蒲生氏郷時代の大窯、「会津大塚山窯」の製品が出土しています。屋敷は、只見町の梁取出身の人が移り住んで、出来た村です。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の時には、神指に巨大な神指城が築城され、神指の13の村が強制的に高野町や湯川村、河東町などへ移転させられています。永和地区にも皆川、江川、武藤、古川氏などが移り住みました。江戸時代初めには、戦国時代までの米沢街道上・中・下道のなかで下道が本街道として整備され、森台集落は宿場となりました。戊辰の会津戦争の時には、8月23日から25日にかけて、上荒久田、下荒久田、屋敷、中前田、藤室、中ノ明、平沢集落の建物に火が付けられ、ほとんどが焼失しています。

地名のゆらい

永和(えいわ)

  明治22年(1889)に、当時の町北村と高野村が合併し、「栄和(えいわ)村」が誕生しました。しかし、明治24年(1891)に村議会の補欠選挙や村長選挙があり対立し、とうとう明治26年6月に村は分裂しました。栄和小学校は存在していましたが、村が分裂したので、同じ名前を使用することは出来なくなり、昔の呼び名を残し、「永和(えいわ)」と付け学校としました。永和小学校の2代目と6代目校長は、白虎隊士飯沼貞吉の弟、飯沼関弥(せきや)がいました。

町北(まちきた)

 若松の北に位置していることから、町北に呼ばれていました。現在の会津若松駅も当初は町北町でした。

高野(こうや)

 高い野原は、ありません。水田地帯なので平坦です。高野とは「こうや」と呼び、平安時代に前半にか開拓されたところを全国的に「こうや」と呼ばれていました。その代表が、和歌山県の高野山です。つまり、平安時代初期に開発が進んだ場所なのです。そのため、9世紀前半の大集落が点在しています。

せせなぎ川

 永和小学校校歌に歌われる川ですが、「せせなぎ」は汚れた川を意味します。上流の会津若松市一箕町金堀には、会津最大の金山があり、最盛期には1400戸ありました。その金山の汚れた水が不動川と合流するところから、せせなぎ川と呼んでいます。「せせらぎ」も元は汚れた川の意味でしたが、今では反対の意味を指すようになりました。せせなぎ川の支流に大工川があります。上流に金堀金山の大工か稲荷原の石工大工が住んでいたことに由来します。または、河東町藤倉から平塚まで大工が材木を流したことに由来するという伝承があります。

木流(きながし)

 木流の馬頭観音堂か平塚の薬師堂を建てる時、藤倉二階堂の余った材木を大工が川に流して建てられたことから木流と呼ばれています。馬頭観音堂は、会津の馬の観音堂として全会津から信仰があり、会津藩の殿様も見に来ていました。木流には、会津最古の彼岸獅子資料が残っています。東側には、磐越西線が通り、駅が作られる予定でしたが、事情により変更となりましたが、祭礼には臨時停車をしていました。

上沼(うわぬま)

 平塚と上沼の間に江戸時代までは大きな沼があり、その上にあるため上沼と呼ばれていました。元の字名は長者屋敷といい、古代に郡山にあった会津郡がの役人の屋敷があったところともされています。また、豪族が沼で舟遊びをしていたという伝承があります。上沼の北には、6世紀に築かれた長山古墳が発掘され、円墳の石棺から約1メートルの直刀が出土しています。

平塚(ひらつか)

 葦名氏の家来で、平塚氏というのが住んでいたことから付けられました。室町時代の応永22年(1415)に平塚五郎左衛門が薬師堂を建てた記録があります。その後、平塚氏は町北町中地へ移ります。平塚の館跡には、南北朝時代に埼玉県春日部市を支配していた春日部氏が越後経由で上杉氏と共に会津へ移った時この館へ入ります。日本水彩連盟を創設した「春日部たすく」は、この地区出身で、平塚の風景や磐梯山、猫の絵が良く知られています。平塚の薬師堂のある場所は、7世紀の鬼高式の土師器が出土している大集落があります。

西木流(にしきながし)

 木流の西にあることから、江戸時代に名付けられました。平安時代の9世紀前半には、愛知県産の釉陶器、緑釉陶器を使用するような裕福な豪族が住んだ屋敷跡が発掘調査で発見されています。室町時代、東森代村と呼ばれていたのが西木流の西側部分です。東森代には、延徳年間(1490年頃)に佐瀬七郎盛滋(さぜしちろうもりしげ)が館を築き、天正頃(1590頃)には森代又治郎(もりだいまたじろう)が住んでいました。上杉時代に入ると、東森代には群馬県の赤城に住んでいた高橋、横山、林氏が上杉景勝の会津移封に伴い、越後を経てこの地区に移り住むようになります。そのため、赤城山麓から移した赤城神社があります。

森台(もりだい)

 昔は、中森代と東森代、下森代があり東森代は、西木流に加わりました。江戸時代に街道が出来ると、現在地に移りました。森代という人が住んでいたことから森台として名付けられました。下森代は、中森代と隣接し、今では森台として一集落ですが、北半分は、河沼郡湯川村に属しています。戊辰戦争の時に、小野家は米沢藩の屯所となり、若松城開城の交渉の場として重要な役目をしていました。

界沢(さかいざわ)

 会津郡と河沼郡との境にある沢があることで付けられました。東高久遺跡は、平安時代の1200年前、会津郡下の「多具郷」の跡です。慶長16年の会津大地震で集落が崩壊し、慶長18年(1613)に高久と堺沢(現在は界沢)に村は分かれました。また、もともとある集落内には戦国時代に松本一族がすみ、後に金屋尾張守(かなやおわりのかみ)と名乗り住んだ館跡があります。金屋氏は、慶長6年(1601)上杉景勝に付いて山形県へ移っています。集落の北側、北界沢には、越後時代の上杉景勝・直江兼続にゆかりのある雲洞庵がが建てられましたが、寺は、東雲寺に名を変えて若松城下と市内大戸町上三寄大豆田へ寺が分かれて移され、城下の寺は戊辰戦争で焼失しています。また、上杉氏の米沢移封に伴い米沢にも移りました。

吉田(よしだ)

 湯川が西側を流れ、その氾濫原に位置する集落です。約1200年前、吉田には「善」一族が住んでいました。そのため名残りとして、下吉田に善福寺があります。善とは「よし」とも呼ぶもので、善一族の田、「善田」(よしだ)が吉田へ変化したものです。なお、氾濫のため良い米が採れる水田地帯でもあります。下吉田に位置する矢玉遺跡は、8世紀後半から10世紀かけての集落跡です。そこからは、9世紀前半に種籾の品種が書かれた「木簡(もっかん)」が5点出土しています。その品種の一つは江戸時代末まで千年以上続いた品種で、明治時代に入り、「亀の尾」となり、さらには「農林1号」へつながっています。そして、永和地区で最も多く栽培されている「コシヒカリ」(農林100号)へとつながるのです。

上高野(かみこうや)

 幕末、会津藩主の松平容保が京都守護職時代、禁門の変で亡くなった「上高野村伊藤伝助」の墓が京都黒谷の光明寺にあります。村東にある西方寺は、天文8年(1539)に建てられています。高野神社は、『会津鑑』によると、「里老の伝に、この神社、天文(てんぶん)年中の洪水にて、神の祠が漂い来て、この丘に留まる故に、丘降(おかふり)神社」という」と書かれています。そのことから、天文年間の大洪水、『会津旧事雑考』にある天文5年(1536)6月28日にあった「白鬚(しらひげ)大水」をさすもので、会津最大の洪水とされ、大川の流れが、それまで本郷から新鶴方面に流れていものが、本郷から塩川方面へ北に流れを変えた他大洪水のことです。集落の中心部には、「湯殿山」の石碑があります。明治2年(1867)に、会津藩の名書家だった星研堂によって書かれ建てられたものです。星研堂は、会津戦争で若松城に籠城し、息子は戦死しています。その後、開城後に塩川送りとなり、塩川代官所・現在の塩川小学校にいて、学問所として設置された「日新館」で書を教えていました。若松と塩川との往復時に、米沢街道の本街道が通る上高野では、村人が会津戦争の慰霊のためにと頼み込んだものです。星研堂は、その年亡くなり、墓が塩川町の阿弥陀寺にあります。下高野(しもこうや)

 村西の十里柳は、一里が654メートルだった時代の十里で、加藤嘉明が植えた柳が昭和の戦後までありました。また、村の西には、一里4キロだった時代の一里塚がありました。至徳元年(1384)に現在の若松城の前身、黒川城が築城された時、材木を集めた場所ともされています。天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻によって村は焼かれますが、政宗の乳母のために寺が建てられています。千福寺の南には、日枝神社があります、この神社は、天台宗比叡山の日枝神社を祀ったもので、その場所には一字一石経を埋めたとされていますが、社殿を建てるときに、調べましたが石は見つかりませんでした。

鶴沼(つるぬま)

 上高野と鶴沼の間に、鶴の首のような細く曲がった沼があったことから呼ばれています。昔は、下古屋(しもこや)村とも呼ばれていました。ここには、葦名氏四天宿老の1人、松本氏の末裔が住んでいたことがあり、後に松本氏は河東町藤倉へ移りました。

沼木(ぬまぎ)

 沼に囲まれた村という意味です。上沼木には、裏磐梯の穴沢一族の家来、菊地弥三冶頼春(きくちやさんじよりはる)が住んでいました。その館跡は、上沼木の集落真ん中にありました。今でも子孫菊地氏が住み、東側には真言宗の西福寺があります。菊地氏は、九州の熊本県の菊池出身で、のちに関東へ移住し、土地に定着するようにと菊地に変え、穴沢氏が常陸の国から会津に来た時、一緒に来ました。

中前田(なかまえだ)

 中前田のせせなぎ川を挟んだ北に、中島村というのが昔あり、その村の前にある田を意味します。上沼木の菊地一族の分家、菊地右近頼景(きくちうこんよりかげ)が住んでいました。館跡が、集落のやや東側に土塁の一部が残っています。菊地氏が去り、1600年に神指地区の村が強制撤去されるとこの集落に多くの人が移転してきました。集落の南には、米沢街道上道沿いにあった七つ壇と呼ばれた塚がありました。発掘調査で、廻国聖が納めた銅製筒が出土しています。会津戦争で、集落が焼かれています。

上荒久田(かみあらくだ)

 鎌倉時代以降に開発された地区で、南北に米沢街道上道がとおっています。江戸時代前半の万治3年(1659)に、街道が整備されるのに伴って、現在の集落形態になったものです、それまでは、今の集落の東側、農協倉庫東の「古屋敷」に集落の中心部がありました。また、そこには渡部源左衛門の館跡があり、元亀年間(1570年頃)に再興された安楽山西光寺もありました。村の北東には「鈴木屋敷」と呼ぶ館跡もありました。その場所は、鈴木新田と呼ばれているところです。また鎮守の「天子神社」は、蒲生氏時代の1620年頃、キリシタンの教会が建てられていたところで、教会特有の建て方の一段高く造られています。その後、キリシタンは禁制となり、今では名残の「天子」のみが残されています。会津戦争では佐藤家2軒を残し焼かれています。

下荒久田(しもあらくだ)

 荒は「こう」とよび、高野=荒野で、平安時代末にから鎌倉時代になると開発されたところを「こうや」から「あらた」=荒田と呼ぶようになります。村の北側には、南会津の只見町から移転した八乙女神社があり、その脇に米沢街道上道が通っていました。会津戦争で村は焼かれています。

屋敷(やしき)

昔は、中ノ明屋敷と呼ばれていました。屋敷とは、室町時代から戦国時代に開発された村を指します。開発された土地は、時代で変化し、奈良時代は「はりた」→「こうや」→「あらた」→「やしき」→「しんそん」→「しんでん」と変化します。現在会津アピオと会津若松インターの地に位置する弥生時代から13世紀頃までの大集落が存在したもので、弥生時代の周溝墓や建物跡、9世紀代の一町四方(109メートル)に溝が巡らされた大集落跡が検出されています。屋敷地区は、古く中ノ明屋敷とも呼ばれていもので、南会津郡只見町梁取に住んでいた石橋、雪野、舟窪、簗取、宗像一族が、伊達政宗勢に追われて、越後へ避難し、その後、上杉時代に越後から現在地に移り住んだものです。会津戦争では、石橋、舟窪の2軒を残し焼失しています。

中ノ明(なかのみょう)

 屋敷の西に沼木の沼があり、沼の中に明るく光るものがあり、拾い上げると金の仏像であったというのが蜜蔵院観音堂の本尊です。会津三十三観音の17番札所です。延徳(えんとく)中(1490年頃)大島小太郎守信が、今の町北集会所の地にあった館に住んでいました。会津戦争で村は焼かれています。

達摩(だるま)

 達磨堂があることから付けられています。この地区には、武藤性がいて、神指城築城の時、当時は武藤村と称していた神指町東城戸地区が、城下町整備のためこの地区に移り住み、築城中止後に、元に戻らず住み着いたものです。

藤室(ふじむろ)

 慶長5年(1600)の神指城築城に伴い、神指の10(とう)の村(正確には13村)からこの地に移り住んだもので、「十村(とうむら)」が「藤村」となり「藤室」に変化したものです。神指町に多い皆川、鈴木、井関性が多く住んでいます。集落の北には、神指の天満から移した、天満宮が建てられています。戊辰戦争では、8月23日の戸ノ口原の戦いへ徴用された人もいて、8月25日に帰ってくると、建物に火を付けられ集落が焼失していました。その日は、神指町東城戸で夕方から夜、旧幕府軍とともに戦って戦死した中野竹子の戦いがあった日で、越後街道と米沢街道から会津藩の萱野権併衛と旧幕府の衝鋒隊が二つに分かれて若松に向かったもので、中野竹子の娘子軍(隊)は越後街道を進んでいました。その日を忘れないようにと、火伏せの愛宕神社の祭礼を今でもおこなっています。また、この地区では、縄文晩期から弥生時代にかけての石刀や弥生時代の石包丁が出土しています。

中地(なかぢ)

 中洲のような地形を中地ということから付けられました。室町時代には天文12年(1543)に、平塚から移った平塚丹波守実恒(ひらつかたんばのかみさねつね)が住んでいました。平塚氏は、葦名氏時代、猪苗代湖の湖南に位置する郡山市湖南町中地も支配していたもので、そのとき、猪苗代出身の連歌師、猪苗代兼載に師事し、歌を残しています。また、連歌が盛んに歌われた猪苗代湖の天満宮を町北町中地へ移し天満宮を建てています。湖南の中地には、館跡が今でも残り、中地大仏もあります。平塚に住む平塚氏は、中地の平塚氏が元住んでいた平塚に平塚の名を絶やさないようにと分家を出したものです。また、下高野の平塚氏も中地から分かれた家ですが、中地の平塚本家は今はありません。

平沢(ひらさわ)

 昔、この地区は、現在地より西に墓地周辺にありました。そこからは、平安時代の9世紀の集落跡が発掘調査で確認されています。湯川と大川の支流で会津美里町本郷から分かれた応湖川がこの地で合流したことにより、集落前が広くなっていたことから広沢と呼んでいました。その後、その川は埋まり、平になったことから平沢と呼ばれるようになりました。そのため、かつての応湖川が神指町との境となり、湯川の西側、神指小学校近くまでが、今でも平沢分となっています。戦国時代には、集落の北側の館に、平沢と中地を支配した二国(新国)若狭が住んでいました。また、集落の北には、青森県津軽地方の製鉄の神様で、会津では湊町赤井とここの二社しかない「アラハバキ神社」があります。江戸時代の一字一石経塚が集落の西側築かれましたが、ほ場整備で消滅しましたが、今でも数個残されています。会津三十三観音16番札所があります。

 

永和暮らしと歴史研究会

 北公民館では、永和地区の人々の暮らしと歴史を学習、調査・研究し、その成果を書籍等の記録として刊行することを通して、永和地区民のアイデンテイテイーを醸成するとともに、その成果を広く公開し、地区民をはじめとして人々の学習の一助とするため、主催事業として「永和の暮らしと歴史」の講座を実施しています。また、永和地区に住む人々みずからが、地域に歴史に目を向け、地域の良さを再確認してもらうため集まり「永和暮らしと歴史研究会」が組織され、活動の中心となっています。

   会長 平塚洋一郎 会津若松市高野町平塚 在住

 

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