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会津と直江兼続

戦国末期から兼続と会津との関わりについて紹介します。セパレータライン

その壱 兼続と神指城

 

幻の神指城。神指町の田園地帯にあるこの城は、今では土塁などの遺構を留めているにすぎません。一体いつ、誰が、どんな目的でこの城を築いたのでしょう。
新編会津風土記などの古い文献によれば、慶長5年(1600年)の2月、ときの会津領主・上杉景勝の命によって築造が始まったことが分かります。主な目的は、城郭を中心とする大きなまちづくりにあったのではないか、といわれています。この時代、既に鶴ケ城は築城されていましたが、近くに山があるために城下町としての発展は望めないと考えられたためでした。
平成3年に県教育委員会が作成した『遺跡調査報告』によれば、神指城は「軍事色を極力抑え、政治・経済面を優先」させていると指摘されています。戦時体制の強化のためではなく、新しい領国経営を目指しての築城だったことがうかがわれるのです。
築城には、会津をはじめとして仙道(中通り)・米沢・越後からも人夫が集められ、およそ12万人を動員して昼夜兼行で工事が進められました。この工事の最高責任者が、上杉家の執政・直江山城守兼続でした。
兼続は、総奉行として全体を指揮しました。このとき、現在の慶山地区から大石を切り出し、人夫が「手繰リニシテ」運んだと記録にはあります。おそらく細い木材を線路の枕木のように並べて、その上をソリのようなもので運送したのではないかと思われます。
工事は2月10日から6月1日まで行われ、徳川家康による会津征伐のために中止となりました。そのため、工事が完了したのは普請(土木工事)だけだったようです。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

航空写真(文字付)

上の写真は市内を上空から撮影したもの。写真の左上部分に見えるのが神指城跡で、四角い形に土塁が築かれていたことが分かります。ときの領主・上杉景勝は、阿賀川と湯川に囲まれたこの地に新しい城の築城を命じました(昭和22年に米軍が撮影した空中写真:国土地理院蔵)

その弐 兼続の出自と上杉家

 

直江兼続は、永禄3年(1560年)、越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城下で、樋口兼豊の長男として生まれました。幼名を与六といい、父の兼豊は坂戸城主の長尾政景に仕えていました。
政景は上杉謙信の重臣で、その妻は謙信の実の姉でした。この夫妻の次男として生まれたのが、後の会津領主・上杉景勝です。景勝は、10歳のときに父・政景の急死により、母とともに謙信に引き取られ、後にその養子になります。与六(兼続)は景勝より5歳年下で、幼いころから景勝のそばに仕えていました。
天正6年(1578年)、謙信が脳溢血のため49歳の若さで亡くなりました。当時、謙信には景勝のほかにもう一人の養子がいました。小田原城主・北条氏康の七男で景虎といい、しかもその妻は景勝の妹だったのです。当然、家督をめぐる争いが起きました。景勝は、謙信の死の翌年、景虎を攻めて自刃させ、その妻子と上杉憲政(謙信の義父)を殺害させています。この戦いは、景虎が憲政の館を拠点としていたことから「御館の乱」といわれています。
御館の乱の2年後、その論功行賞のもつれから家臣の間に争いが起こり、奉行職の直江信綱が巻き添えをくって斬殺されるという事件がありました。直江家は謙信の親の代からの長老格の家柄でしたが、養子であった信綱にはまだ跡継ぎがいませんでした。
この名家が断絶するのを愁えた景勝は、信頼する兼続にその跡を継がせようと、未亡人となった信綱の妻(お船)と結婚させます。時に兼続22歳、お船は25歳でした。直江兼続が世に出るまでには、戦国時代ならではの曲折があったのです。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

直江兼継をめぐる家系図

謙信亡き後の越後国は、御館の乱やその後の内争などにより、隣接する大名・諸侯などの侵攻を許し、その領土を大きく減らしました。時の会津領主・葦名家も景勝に敵対する形で介入しています

その参 兜の前立は「愛」

 

御館の乱の後、上杉謙信の後継者となった上杉景勝は、越後や佐渡などを平定しました。会津に入部する前の景勝の所領は91万石に及び、直江家を継いだ兼続は越後の与板城主になりました。
天正10年(1582年)、景勝は越後に侵攻してきた織田信長の軍勢と戦いますが、そのさなか、本能寺の変で信長が討たれ、織田軍は退陣します。次の天下人が豊臣秀吉というのは誰の目にも明らかで、同14年、景勝は兼続らを従えて上洛し、秀吉と会見しています。これはとりもなおさず、秀吉に臣従するということを意味しました。
一説には、この前年、秀吉が越後の国境にある落水城(新潟県青海町)で景勝と密談したと伝えられています。このとき同席したのは、秀吉の側近として仕えていた石田三成と兼続の二人だけでした。26歳で同い年でもあった二人は意気投合し、以後、親交を結ぶようになったといわれています。
天正16年、景勝は再び上洛しました。これに従った兼続は、秀吉の計らいで従五位下山城守に任ぜられ、豊臣の姓を許されました。いかに秀吉が、兼続のすぐれた戦国武将としての人間性などを高く評価していたかがうかがわれます。
また見識の高い文人でもあった兼続は、名僧たちとの親交もあり、在京中、臨済宗妙心寺の南化和尚から「古文真宝抄」(20巻)を借りて筆写させるなどしています。
兼続が数々の合戦で身につけていた具足は、上杉神社(山形県米沢市)に所蔵されています。その兜の前立には「愛」の文字があしらわれています。これは愛宕権現や愛染明王などの神仏によるもので、今日の愛の概念とはやや異なります。しかしこの前立には、剛毅な中にも人間愛を大切にした兼続の人柄がしのばれてならないのです。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

愛宕神社


愛宕神社
 

その四 上杉家の会津入部

 

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉の五大老の一人となった上杉景勝は、翌年の慶長3年に会津120万石を与えられました。これは、前領主・蒲生氏の92万石に、出羽国(山形県)の一部や佐渡島(新潟県)などを合わせた広大な領地でした。
蒲生氏が会津から転出するにあたり、当時の耶麻郡桧原村あてに出された“掟”が「会津旧事雑考」に載っています。これは「新編会津風土記」にも転載されている文書なのですが、末尾には“慶長3年2月16日”という日付があり、直江山城守(兼続)と石田治部少(三成)の連署と花押を見ることができます。この文書によって、三成は太閤秀吉の命を受けた代行人であり、兼続は上杉景勝の代理を務め得る執政(家老)の立場にあったことが実証されるのです。
上杉家の執政である兼続は、会津に入部した景勝から6万石を与えられて米沢城主となりました。この兼続の所領については“30万石”としている書籍などを見かけますが、米沢藩が編集した「紹襲録」(写本)によると、6万石とするのが正しいようです。当時、秀吉の直臣であった石田三成が20万石程度だったことを考えると、秀吉の陪臣(臣下の家来)である兼続が30万石だというのは考えにくいのです。しかしそれでも、6万石の兼続の所領は上杉家の重臣の中でも最大でした。
兼続は、上杉家の執政としての立場上、米沢の地を治めるとともに米沢と若松の間をしばしば往来していたと思われます。現在、上杉時代の若松城下の絵図は残されてはいないのですが、若松での兼続の屋敷は、今の山鹿町の東の外れにある「山鹿素行誕生地」の碑が立っている辺りだったようです。その建坪は、1万2千平方㍍にも及ぶ広さだったといいます。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

直江兼続屋敷跡

江戸時代の高名な兵法学者であった山鹿素行。その誕生地の碑が、山鹿町(旧会津学鳳高校の国道を挟んだ向かい側辺り)に立っています。兼続がこの地に屋敷を構えたといわれる時期は、素行が生まれる何十年も前のこと。当時の兼続は、この会津の地をどんな思いで歩いたのでしょうか

その五 会津で書いた「直江状」

 

上杉景勝が豊臣秀吉の命によって越後から会津へ国替えになったのは、慶長3年(1598年)1月のこと。そして、その年の8月に秀吉が没しました。五大老の一人だった景勝は、直江兼続らを従えて10月に上洛し、政務を果たして会津に帰ったのは翌年の8月でした。
その後、景勝は領国・会津の経営に力を入れ、街道の改修や橋の架け替えなどを行いました。また、30万石近い増封で、浪人を召し抱えたり武具類を購入したりしました。これらは領主として当然のことでした。ところがそれを根拠に、景勝に謀反の疑いがあるとして、慶長5年4月1日付けで徳川家康からの詰問状が届いたのです。
書状は兼続にあてられていました。家康の命でこれを書いたのは、兼続と親交があった相国寺(京都)の西笑承兌という僧侶。兼続あてだったのは、景勝を説得し、家康に屈服させるのには最も効果的な人選だったからかもしれません。
この書状を4月13日に読んだ兼続は、翌日、直ちに16カ条に及ぶ弁明状を書き上げています。これが、世に有名な「直江状」です。兼続はこの中で、主君の景勝には決して別心のないことを述べるとともに、家康の態度こそが秀吉の遺命に背くものではないかと弾劾しています。家康に対して一歩も引けを取らない、兼続の面目躍如たる書状でありました。
実は、直江状の原本は今に伝わっていません。「古今消息集」(内閣文庫所蔵)などに写しが載っていますが、一部の専門家の間で、用語の使い方や文章の言い回しなどから後世の偽作ではないかという説もあるようです。しかし真偽はともかく、兼続の人間性を考えると、主君の潔白を主張する内容の書状を家康に返したことは、事実だったことと思われます。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

直江兼継肖像画

直江兼続の肖像(「集古十種」より)。上杉景勝が行った領国の整備には神指城の築城もありました。その全体の指揮を執ったのが兼続。こうした領国の整備や家康に真っ向から対立した「直江状」などが火種となり、会津征伐やその後の関ヶ原の戦いへと時代は移っていくのです

その六 (最終回)会津との別れ

 

徳川家康からの詰問状に対して直江兼続が書き送った「直江状」を読んだ家康は激怒したといいます。同時に家康は、兼続と石田三成との間で何か密約があるのではないか、と疑ったのでした。その密約とは、家康と戦いになった場合、会津の上杉勢と西の三成勢でもって挟み討ちにするというもの。家康にとっては危険な状況でした。
しかし、家康は高齢だったため事を急がねばならず、この機会に三成が出てきたならば一気にたたきつぶそうという野望を抱いていたようです。
慶長5年(1600年)5月、ついに家康は上杉討伐を決意し、諸大名に会津出兵を命じました。家康自身が会津へ向けて出陣したのは7月のことでした。
これによって上杉家は、白河城などの防備を急いで固めなくてはならず、神指城の築城も未完のまま中止せざるを得ませんでした。
家康の軍勢は小山(栃木県小山市)まで来たとき、三成らによる豊臣方の挙兵の報に接したため、8月には江戸へ引き返しています。このとき、兼続は家康を追撃しようとしましたが、主君の景勝は時期尚早と考えたためか、これを許さなかったといいます。
関ヶ原の戦いでは、家康軍が勝利しました。このころ、兼続らは、同盟していながら家康方に内通していた最上義光と戦っていました。しかし、関ヶ原での三成の敗報がもたらされると、もはや家康を倒すことは不可能と知ります。景勝は家康に謝罪し、米沢30万石に減封されました。兼続も、これに従って会津を去っています。
戦国の乱世において「義」を貫いた直江兼続。その生涯は60歳で幕を閉じました。
▼文…市文化財保護審議会委員・間島 勲さん

 

神指城跡

神指城の築城を指揮していた兼続。しかし、その築城はかないませんでした。未完の城を残して会津を去らねばならなかった兼続の胸中は、いかほどだったでしょう。あなたも神指城を訪れて、兼続の描いた城に思いをはせてみませんか

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