明治元年(1868) 新政府軍が会津領内に入り、会津軍は鶴ヶ城に籠城し戦った。一ヶ月の籠城に耐えるも多くの犠牲者の前に降伏のやむなきに至った。 籠城戦を戦ったのは会津藩士だけではなかった。
水戸藩市川隊
佐幕保守派と尊王攘夷派が対立する幕末の水戸藩は混乱していた。佐幕派の市川三左衛門弘美が藩の実権を握り、尊攘派と各地で交戦していた。慶応3年(1867)「王政復古の大号令」により尊攘派が権力を握ると、弘美ら佐幕派の水戸藩士が翌年水戸藩を脱出して会津へ向かった。この一派を市川隊と呼ぶ。市川隊は会津に入ったが、会津藩は新政府軍に恭順の働きかけをしており、水戸藩から市川隊追討軍も発せられていた事情から受け入れを拒否。市川隊は会津を抜け越後各地を逃走、北越戦争で会津・桑名兵軍と共に戦い敗退。再び会津へ戻り、籠城戦に参加した。
郡上藩凌霜隊
慶応3年(1867)大政奉還により、郡上藩は新政府に恭順する方針を固めた。しかし郡上藩江戸藩邸には佐幕の一派があった。江戸家老の朝日奈藤兵衛は幕府側が勝利した時の事を考え息子茂吉を隊長とする藩士47名を密かに脱藩させ幕府軍の一隊を結成させた。これが凌霜隊である。凌霜隊は江戸より海路、陸路を経由し各地で転戦しながら会津へ向かった。会津には新政府軍が攻め入ってすでに籠城戦に入っていた。凌霜隊は河原町口の郭門より鶴ヶ城へ入城。日向内記配下の再編白虎隊と共に西出丸の防衛にあたった。
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