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会津藩の北方警備(樺太出兵)
(あいづはんのほっぽうけいび からふとしゅっぺい)

文化四年(1807)
徳川幕府の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のレザノフは実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許しなく海軍による樺太・千島への襲撃を開始した。幕府は奥羽諸藩に蝦夷地(北海道)への出兵と防備を命じた。

それでも十分ではなかったため、当時会津藩家老の田中玄宰は幕府に会津藩の樺太出兵を内願。文化5年(1808)正月、軍将内藤信周指 揮の下会津藩兵が若松城下を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、番頭梶原景保が利尻島に派遣された。さらに北原光裕指揮の下樺太に上陸し本格的な警備陣営 を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。(本営:北原光裕、西側:丹羽能教、東側:日向次明)。

実際のロシア兵との交戦はなかったが、樺太からの帰路会津軍は台風に遭い船が難破、一部は天売、離島焼尻島へ避難した。現在宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
会津藩の樺太出兵はその後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなった。



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稚内市(北方警備会津藩士の墓)
羽幌町(北方警備会津藩士の墓)
利尻町(北方警備会津藩士の墓)
利尻富士町(北方警備会津藩士の墓)

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田中玄宰

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小田山(田中玄宰の墓)(丹羽能教の墓)




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