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会津藩の江戸湾警備(あいづはんのえどわんけいび)

文化七年(1810)
幕府は領土的野心を含み国交を求めて来る外国船に対抗するため、樺太出兵後の会津藩に江戸湾警備(三浦半島の湾岸警備)を命じた。遠方への長期出兵だった ため家族同伴がゆるされ、観音崎、久里浜、城ケ島に砲台と陣屋が建設された。この江戸湾警備は10年に及び、派遣された将兵や家族の墓が現在も横須賀市や 三浦市などに残っている。

弘化四年(1847)
会津藩江戸湾警備が再開、房総半島の上総富津と竹岡に陣屋と砲台を構え東海岸警備に就いた。松平容保が18歳で会津藩主となった翌嘉永六年(1853)ア メリカ司令長官ペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来た(黒船来航)。対岸の会津藩水軍も黒船来航の警備に加わった。ペリーが去った後、会津藩は江戸湾の 品川第二砲台場の防備に着任し、安政六年まで続いた。

これらの湾岸警備には水泳法の習得が不可欠で、砲術と水練の師範だった高津助之進により向井流水法による訓練が行われた。高津は他藩士 にも泳法指導を行い、その中で免許皆伝となった佐倉藩士笹沼龍助により向井流水法が今日まで伝えられる結果となった。この流れは近年になり、小樽市に残っ た向井流水法の流れと結びつくこととなる。



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横須賀市(相州警備)
三浦市(相州警備)
富津市(江戸湾警備)
小樽市(向井流水法・大竹元一)

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小田山(丹羽能教の墓)




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