山川 浩(大蔵)【やまかわ ひろし(おおくら)】
(佐川和子氏 所蔵) |
会津藩家老職の家に生まれる。19歳で、京都にいた藩主容保の命により、物頭として上京し、常にその側近にあった。幕府の樺太境界議定に随行、旅行中の見聞によって世界の大勢を学び、攘夷が非であることや近代化の波を体感した。会津戦争では、新政府軍に包囲された鶴ヶ城内に入るため、一計を案じ、彼岸獅子舞を奏して入城。西軍をあっけにとらせた。入城後、防衛総督に任ぜられ総指揮をとる。明治2年松平家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。廃藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範学校長などを兼務。弟である山川健次郎と共に編集した「京都守護職始末」は維新史の新生面を開いた。享年54歳。新選組隊士、斎藤一(藤田五郎)と会津藩士高木小十郎の娘時尾との結婚の際には、佐川官兵衛とともに下仲人を務めた。また、斎藤一が東京師範学校に奉職したのは、当時、現役軍人のまま校長を務めていた彼の引きがあったのだと言われる。 |
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