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会津人物伝

 
 
世界的陶芸家を育てた女性
板谷 まる(いたや まる)
(1870〜1958)

板谷波山(いたや はざん)をつくった女性
 陶芸家として、浜田庄司らと並び称される人に、板谷波山がいます。この波山の才能を信じて世界的な陶芸家になるまで育てあげたのが、妻である板谷まるです。

まるの生い立ち
 まるは、明治3年に河沼郡坂下村(今の会津坂下町)随一の呉服商、鈴木家の三女として生まれました。成長したまるは、東京の創立後間もない共立女子職業学校(今の共立女子学園)に入学し、裁縫などの実学とともに日本画を習いました。また会津出身で社会児童福祉の先駆者である瓜生岩子にも私淑し、大きな影響を受けています。明治26年、若松に戻ったまるは、結婚して経営を譲る明治28年まで、自分で創立した会津女子職業学校の主任教師として裁縫や手芸を教えました。

波山との出会い
 茨城県下館町(今の下館市)に生まれ育った波山は、初めは職業軍人を目指していましたが途中で芸術に目覚め、東京美術学校彫刻科に入学しました。卒業後は私立中学校の美術教師をしており、そのころに瓜生岩子の孫にまるを紹介されました。日本画をかいていたまるは、波山の才能を見抜き、自分の職業婦人としての生き方を捨てて波山と結婚しました。

苦境を乗り越え
 陶芸家となるため上京した波山は、明治36年に瀧野川村(今の北区)に工房を構えます。二人は窯を築くために荷車で材料となるれんがを尾久まで買い出しに行ったり、けがをしながられんがを積み上げたりと、苦労の末、自分たちの窯を築き上げました。このころ4人目の子どもが生まれましたが、いまだ作品の完成には至っておらず、塩味だけのすいとんに野草を入れて食べるというつらい生活をしました。

二人で力を合わせ
 初窯での成功や勧業博覧会への入選を果たしますが生活苦は続き、そのため飛鳥焼といって、住んでいた地名から名付けた食器を波山が焼き、まるがそれを売り歩いたり、玉欄の画号でマジョリカ焼の陶器の下絵をかいたりして家計を支えました。
 明治44年の夏、二人は皇后陛下に招かれて御前制作をするまでになっていましたが、参内した時のまるの格好は浴衣姿のひっつめ髪という普段着のままでした。波山は昭和5年にフランス大統領から勲章を贈られたり、この後、文化勲章を受賞したりして、世界的な陶芸家として認められることとなります。

◎参考…坪田五雄編「福島県人物風土記」