トップページへ 1つ上へ

会津人物伝

人物

市制施行の立役者
海老名 季昌(えびな すえまさ)
(1843〜1914)
市制施行に尽力
 県内で最初に市制が施行されたのは若松市ですが、他県の最初の市と比較すると、約10年も遅いものでした。戊辰戦争のため明治新政府に差別されたという話もありますが、この市制施行に尽力した人が当時若松町長だった海老名季昌です。この人の活躍がなかったら若松市の誕生はさらに遅れていたかもしれません。

虚弱児から戦士へ
海老名季昌は、天保14年(1843)に天寧寺町に生まれました。2歳の時に天然痘を患い死にかかったため、5歳になるまでは家から一歩も外に出なかったというほどの虚弱児でした。しかし、嘉永4年(1851)、会津藩に任された房総警備に軍事奉行として出陣した父の季久に従って上総富津に暮らしてからは体が丈夫になりました。
 安政元年(1854)には江戸に移り、馬術、刀術、火術などの武芸修行に励みました。文久元年(1861)、季久が蝦夷地(今の北海道)の軍事奉行になったため季昌も渡海し、北蝦夷地の探検警備に同行しました。当時の北海道は未開の地であり、現在の函館から宗谷岬を経て樺太の南端まで、苦労の末に縦断しています。道中は暴風雨のため難破しかかったり、幕府の役人と争ったりと大変な旅でした。

留学そして戊辰戦争
 季久の隠居に伴い家督を継いだ後、元治元年(1864)に京都勤番として上洛し、同年7月の蛤御門の戦いで活躍して御使番、大砲組頭と順調に出世しました。
 慶応3年(1867)にはパリ万博への徳川幕府使節団の一員として渡欧し、約1年間にわたり留学生活を送りました。帰国後の同4年、鳥羽伏見の戦いでも活躍し、帰還後は鶴ケ城の籠城戦を戦う中で若くして会津藩の家老となりました。

役人から町長へ
 明治5年、季昌は戊辰戦争後の幽閉から解かれてから、後に福島県令や警視総監を歴任した三島通庸の知遇を得て、北会津郡長をはじめ福島県内数カ所の郡長を務めました。
 明治31年には、当時市制施行を目指して活動していた若松市制期成同盟会などからの要請を受けて若松町長になり、同32年についに市制施行を実現するに至りました。この時、市長就任の要請を辞退し、市長事務取扱として7月に初代市長の秋山清八が就任するまでの間、市政を運営しました。
 第1次大戦が始まった大正3年、季昌はその生涯を閉じ、天寧寺町の浄光寺に葬られました。

◎参考…玉川芳男著「海老名季昌・リンの日記」
◎写真…若松第一幼稚園蔵