トップページへ 1つ上へ

会津人物伝



アメリカ移民日本女性第一号

お け い 

(出生不詳〜1871)

「OKEI」
 大正4年(1915)、カリフォルニア在住の記者竹田文治郎は、日本人の少女の墓が残されていることを知ります。墓は、ゴールドヒルの丘にひっそりと立ち、「OKEI」と刻まれていました。
 近くに住む農場主ビーア・カンプから、1869年に来た日本移民団の少女の墓であると聞きます。文治郎はこの日本人最初の移民を、アメリカの日系新聞の記事にし、以後日系人から大きな関心を集めました。

日本移民百周年記念碑
 人種差別が色濃く残るアメリカで、太平洋戦争中、多くの日系人が強制収容され、非人道的に扱われました。戦後解放された日系人は、おけいら移民団を苦難の先駆者としてたたえ、昭和44年(1969)ゴールドヒルに「日本移民百周年記念碑」を建立しています。

ドイツ人の会津藩士
 会津藩は戊辰(ぼしん)戦争に備え、ヘンリー・スネル(和名平松武兵衛)を軍事顧問に招きました。スネルは、日本女性と結婚し子供ももうけ、材木町の屋敷に住んでいました。近くの大工伊藤文吉・お菊の長女が「おけい」です。おけいは、スネル邸で子守りをしていました。

ゴールドラッシュ
 会津藩の敗戦後、スネルは藩主松平容保に、ゴールドラッシュにわくカリフォルニアの話をして、藩士らで金鉱を探し、アメリカでの農場経営を勧めました。その了解を得て、明治2年、スネルらの移民団はチャイナ号で横浜を出航しました。

ワカマツコロニー
 一行はゴールドヒルに土地を購入。「ワカマツコロニー」と名付け、日本から持参した茶や桑の栽培を試みます。しかし、間もなく栽培は失敗し、資金難からコロニーは解体、移民団はちりぢりとなります。
 子守りのため、スネル一家とともに移民団にいた18歳のおけいは、ビーア・カンプに引き取られます。利発なおけいは、家事を手伝い、かわいがられました。しかし、翌年、突然高熱に襲われ、19歳で亡くなります。亡骸(なきがら)は、入植地が見える丘に葬られました。

旧藩士 桜井松之助
 十数年後、同じ移民団の桜井松之助らによっておけいの墓碑が建てられます。松之助は旧藩士で、同じくカンプ家に引き取られ、67歳で亡くなっています。
 会津若松市には、昭和32年に同じ墓が建てられ、今も背炙山(せあぶりやま)から故郷を見つめています。

◎参考…山本一洋「若松コロニーの跡を尋ねて」