「ある明治人の記録」
「血涙の辞」に始まるこの物語には、敗戦で会津藩士たちがたどった苦難の姿と、藩士たちの心情が切々と綴
(つづ)られています。副題「会津人柴五郎の遺書」の柴五郎は、薩摩・長州の藩閥
(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで進んだ人物です。五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた会津人でした。
一家の自決
柴五郎は、万延元年(1860)に会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれています。8歳で藩校日新館へ入学、戊辰(ぼしん)戦争が勃発します。西軍が城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで、沢(門田町面川)の別荘へ出かけ難を逃れます。しかし、祖母・母・妹らは自邸で自決し、屋敷は消失しました。
「ここは戦場なるぞ」
落城後、五郎は父と兄弟とともに藩士の新天地斗南(となみ)藩(青森県)へ移住。北の冷涼でやせた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよいました。「挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに、父は「薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ」と叱責(しっせき)しました。
陸軍へ
五郎は、藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校へ15歳で入学します。五郎は、士官学校を経て、軍人としての頭角を現していきます。
北清事変
明治33年(1900)北京の外国公使館(今の大使館)区域が、民衆の反感を背景に組織された義和団に襲撃されました。駐在武官に派遣されていた柴五郎は、解放されるまでの二ヶ月間のろう城戦を指揮し、その適切で勇敢な行動で、各国から高い称賛を受けています。さらに、解放後に占領した北京で、略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも努めています。
終戦
日露戦争の勝利、第一次世界大戦への参戦など、日本の軍事大国化とともに、五郎は昇進を重ね、61歳で陸軍大将となります。その4年後に退役し、東京の自宅で余生を送ります。
晩年は、会津出身者の支援のため、育英事業に尽力しています。
太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送を聞いた1ヶ月後、身辺を静かに整理し、自決します。一命をとりとめますが、その年の12月に、85歳で息を引き取りました。
◎参考…石光真人編「ある明治人の記録」
◎写真提供…博物館会津武家屋敷