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会津人物伝

司法の新制度確立に尽力した会津人
三淵 忠彦
みぶち ただひこ

(1880〜1950)

「公正を愛する心」
 「天性、勝負事は嫌いで、裁判は人びとの争いを裁くため、私は法律家に適していない。ただ、公正を愛する心のみが、私を裁判所へつないでくれた」。戦後、最初の最高裁判所長官を務めた三淵忠彦の言葉です。忠彦は、会津武士の風格を持つ公正な法律家でした。

会津藩最期の家老の甥(おい)
 三淵忠彦は、明治13年(1880)に三淵隆衡(たかひら)の長男に生まれています。父は旧会津藩士でした。戊辰(ぼしん)の敗戦後の藩の全責任は、藩主ではなく、家老が責任を問われました。3人の家老のうち2人は自刃し、ただ一人、萱野権兵衛がその責任を負い切腹しました。忠彦の父はその権兵衛の実弟で、家名は断絶され、三淵を名乗りました。

裁判所へ
 幼いころから利発な忠彦は、東京帝国大学法科に入学します。しかし、両親と弟を相次いで失い、失意のため学業を中断してしまいます。再び、京都帝国大学の法科に入学、苦学の末25歳で卒業しました。
 卒業後、忠彦は地方裁判所の判事を務め、大審院判事となり民事裁判官として名声をはせます。傍ら、慶應義塾大学で民法を講義し、「法律民衆化の講演会」を開くなど、市民の視点に立った進歩的な活動を行いました。

会津武士の風格
 司法界で嘱望されながら忠彦は45歳で判事を辞任します。その後信託銀行の顧問となりますが、それも60歳で辞任し、自適の生活を送ります。その間、「日常生活と民法」などを著し、漢籍・文学・芸術など広い見識を養いました。当時の忠彦は「会津武士の風格を残し、その意見は極めて適切であった」といいます。

国民の裁判所
 終戦後の新しい憲法の下、最高裁判所が新設されました。その初代長官に忠彦が任命されます。忠彦は国民の権利を擁護する裁判所を目指し、その基礎固めに尽力しました。また、裁判官の判決の誤りの責任を厳しく問い、裁判官のあり方も示しています。

「天下の大道」
 忠彦は70歳で退官し、間もなく病床に伏します。
 「我々は天下の大道を歩こうよ、よしや抜け道や裏道があって、その方が近いと分かっていても、それはよしましょう。川に橋がなければ橋を架けて、そして渡りましょう」。忠彦の最後の言葉です。

◎参考資料…「福島百年の先覚者」福島県