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会津人物伝

人物

幕末の会津藩を支えた公用人
秋月 胤永(通称・悌次郎)
 あきづき かずひさ

(1824〜1900)
『北越潜行(ほくえつせんこう)』の詩
 鶴ヶ城三ノ丸の博物館入口に、この詩碑が建立されています。慶応4年(1868)9月23日、鶴ヶ城は開城しました。
 秋月胤永は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い、藩の寛容な処分を訴えました。その帰途に、憂い悩む気持ちを詩に残しました。

西日本の調査
 胤永は、文政7年(1824)に会津藩士丸山胤道(かずみち)の次男として城下に生まれ、秋月の姓を継ぎました。19歳のとき江戸に遊学し、幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)に学びました。その後、一旦会津へ帰りましたが、まもなく藩の命令で西日本を調査し、状況を藩主に報告しました。この時、各地の藩士と交遊が生まれ、奥平謙輔とも知遇を得ています。

桜田門外の変
 当時の日本は、欧米の開国要求で鎖国政策が乱れ始めます。開国反対者を弾圧し「安政の大獄」を進めた大老井伊直弼(なおすけ)が、水戸藩士らに暗殺された「桜田門外の変」は、幕藩体制を揺るがす大事件でした。会津藩は、幕府と水戸藩の和解のため事態の収拾を図り、胤永はその調停を行いました。この事件で、会津藩は幕府から厚く信任されます。

京都守護職
 幕府は会津藩を重用し、藩主松平容保(かたもり)は「京都守護職」を固辞しきれずに拝命します。京都は、政情不安から反幕府の野望が渦巻いていました。そのため、胤永は公用人として情報収集に活躍。薩摩藩と連携し、反幕府の公家を排除した「七卿落ち」の端を開きました。

蝦夷(えぞ)地へ
 翌年、胤永を用いた家老横山主税(ちから)が亡くなり、蝦夷地(北海道)の藩領へ左遷させられます。北端の地で京都に思いを寄せること2年、将軍・天皇が相次いで亡くなり情勢が一変します。胤永は再び京都に呼ばれ、事態の打開に奔(ほん)走、すでに長州と薩摩は密約を結び、翌年には15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が大政を奉還します。

副軍事奉行
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで会津藩は敗走。戊辰(ぼしん)戦争に突入すると、胤永は和解を進めましたが妨害されます。戦況は急速に悪化、若松城下も戦場と化し、胤永は副軍事奉行として籠城戦を指揮しました。  兵糧尽き、胤永は米沢藩を通じ、直接西軍の総大将板垣退助と調停し、自ら降伏・開城を段取りました。

新たな人生
 胤永は、戦争責任を問われ終身禁固刑となります。5年後に特赦され、東京大学や熊本の第五高校などに勤め、小泉八雲とも親交を温めています。明治33年、77歳で波乱の生涯を終えました。

◎参考…「秋月悌次郎詩碑建立記念誌」秋月一江ほか
◎写真…秋月一江氏蔵