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会津人物伝

人物

東京帝国大学総長・貴族院議員
山川 健次郎
 やまかわ けんじろう

(1854〜1931)
大学の創立
 欧米を見習った近代国家をつくるため、明治政府の国家的な課題が、それを担う人材の育成でした。旧幕府の学問所や研究所は、改組統合しながら明治10年に東京大学となり、明治19年の帝国大学令で、東京帝国大学などの国立大学の設置が進みました。
 山川健次郎は東京帝国大学総長を始めとして、創設間もない、近代日本の教育制度の維持と発展に力を尽くしました。

謹慎から脱出
 健次郎は、安政元年(1854)若松城下本二之丁(現東栄町)に、会津藩士山川尚江(なおえ)の三男として生まれました。9歳から藩校日新館に学び、15歳のとき、藩の軍制改革により白虎隊に編入されますが、若年のため一旦除隊しています。その後、藩命でフランス語を学びますが、城下に戦火が及ぶと籠城戦に加わりました。開城後、猪苗代に謹慎中に脱出し、会津藩士秋月胤永(かずひさ)の手配で、長州藩士奥平謙輔(けんすけ)を頼り新潟へ逃れた後、東京へ出て苦学しました。

最初の理学博士
 藩が斗南(となみ)で再興され、健次郎は18歳で政府のアメリカ留学生に選ばれました。エール大学で物理を学び、22歳で学位を取得。帰国後は、東京開成高校で教べんを取りました。東京大学に改組されると、26歳で最初の物理学教授となります。
 健次郎は、実験器具の整備や学生の指導など物理学教育の基礎を築きました。

東京帝国大学総長
 48歳で総長となり、4年後の明治38年には、政府を非難した教授が処分を受け、教授たちが大学の自治を求め決起する事件(戸水事件)が起こりました。健次郎は、自ら辞任することで混乱を治めました。その後、明治専門学校(現九州工業大学)の総長となり、さらに九州、東京、京都の各帝国大学の総長を務め、揺れ動く大学教育の維持に努力しました。

「京都守護職始末」
 健次郎は、育英のため会津学校会の設立や、上京して就学する会津の学生のための寮(至善寮)の建設など、人材の育成に力を尽くしました。さらに、兄浩が残した「京都守護職始末」を完成させ、幕末における会津藩の立場を明らかにしています。
 昭和6年(1931)78歳で亡くなりました。

◎参考文献…小檜山六郎他「近代日本に生きた会津の男たち」会津武家屋敷
◎写真:山川建重蔵・写真提供:博物館会津武家屋敷