
第23回 「幕末の鶴ヶ城の全景」
今回の干飯櫓(ほしいやぐら)・南走(みなみはしり)長屋の復元にあたっては、建物の時代設定を幕末に設定していますが、お城は、建立当初から幕末に至るまで、時代によりその姿を変えています。
当初城地は土塁仕立てでしたが、蒲生氏郷(がもううじさと)が石垣仕立てに改修し、本丸の東側に二の丸、三の丸を構え、壮大な天守閣を築き、「鶴ケ城」と命名しました。その後、加藤明成(あきなり)の時代に天守閣を改修し、本丸の北と西に出丸を構築して、ほぼお城の姿が定まってきたと考えられます。残念ながら建物は、明治初期にすべて取り壊されましたが、遺構として残された石垣や土塁などから、お城がどのようなものだったかをうかがい知ることができます。 城地はお壕(ほり)などで大きく区分けされますが、その分けられた区域は「郭(くるわ)」と呼ばれます。郭には敵の侵入を防ぐために櫓門(やぐらもん)が設けられ、櫓門までの進入路は、石垣によってかぎ形に折り曲げられ「枡形(ますがた)」と呼ばれる形をしていました。これは、石垣に彫られた門の跡により、容易に確認することができます。 また、郭の周囲は土塁や石垣で盛り上げられ、要所には隅櫓(すみやぐら)が建てられていました。これにより、敵の襲来をいち早く探知し、また各門に侵入してくる敵を火縄銃などで狙い撃つことができるようにし、防御力の向上を図っていたと考えられています。 鶴ケ城の隅櫓は二重櫓で、全部で11棟あったようです。干飯櫓はこれらの中でも、天守閣につながる重要な位置に建てられており、しかも、西出丸の内讃岐門(うちさぬきもん)(南側の入り口)の侵入者を狙い定めることができる位置にありました。 また走長屋は、御殿(ごてん)のある本丸を守るために、兵士が行き来できるよう造られた建物です。今回復元された南走長屋と天守閣再建時に建てられた走長屋のほかにも、天守閣の北側から東、また廊下橋付近まで走長屋が延びていました。上から見ると、天守閣を中心にして鳥が翼を広げたような形をしていたようです。 |