
第13回 「瓦 文 様」
今回復元する干飯櫓(ほしいやぐら)と南走長屋の屋根は、発掘資料や絵図面から、瓦葺(かわらぶ)きの建物であったと考えられました。
屋根瓦のうち、屋根の上端などに付く鬼瓦と、軒の先端に付く鐙(あぶみ)瓦(軒丸瓦)と宇(のき)瓦(軒平瓦)に文様が付けられていました。この文様は各城郭ごとに違うものになっています。復元では史実に忠実なものとの考え方から、瓦の文様についても江戸時代末期に使われていたものと同様のものにする必要があります。 古写真から瓦の文様が分かれば良いのですが、いずれの写真も小さく不鮮明なものばかりでした。このため当時を知る手段としては発掘調査の出土品が物証となります。その出土品から江戸時代末期の文様は、図のように鐙瓦は基本的に三巴(みつどもえ)文で、その周囲に珠文がめぐるものもあります。宇瓦は中心に菊花の断面状の文様が配され、その両側に唐草文が付けられています。鬼瓦は三巴文です。 日本での瓦葺きの建物は、推古天皇4年(569)に現在の奈良県明日香村に造られた飛鳥寺が最初のものです。当時の瓦は朝鮮半島から来た人によって作られたため、文様は朝鮮半島と同じ物でした。 若松城の鐙瓦や鬼瓦に使用された巴の文様は平安時代の後期から使用され、中世以降盛んに使われるようになり、城郭や社寺建築の瓦に一般的に使用される文様となりますが、これは渦に防火の意味がこめられたためと考えられています。宇瓦の文様である菊文の意味ははっきり分かりませんが、加藤嘉明が伊予松山城から会津に入った寛永4年(1627)以降に使われた文様と推定されます。 城郭の中では瓦の文様に家紋が使われた城もありますが、若松城跡では葵の紋がついたものは一点も見つかっていません。また、城内のいずれの櫓にも鯱(しゃち)瓦があったという明確な資料がなかったため、今回の復元で鯱瓦はつけていません。
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