
第11回 「屋根瓦」
今から400余年ほど前、時の領主蒲生(がもう)氏郷は、若松城の大改修を手がけています。「新編会津風土記」によると、その屋根瓦(がわら)を作らせるため、播磨(はりま)国(現在の兵庫県)より瓦工を呼び寄せ、小田村(現市内花見ヶ丘)で製造させました。しかし、色は黒く、品質はまだ土器に近いものであったようです。その後時代が移行しても、瓦は焼かれており、やがて氏郷時代から半世紀後の藩主保科(ほしな)の時代には、小田村と本郷村に分けて、両方で作られるようになりました。特に本郷では、土が良質であったことにより、この瓦製造が発展、やがて陶器が製造されるようになり、これが今日の本郷焼きとなっています。
このことは、お城がいろいろな形でさまざまな産業とかかわりを持ち、それが現在の地域産業につながっている一つの典型と言えます。 その後、黒瓦は冬の寒さに凍み割れてしまうことから改良が求められました。そこで瓦に釉薬をかけて焼き、できたものを二の丸のお濠の中に寒中30日余り浸しておいたところ、壊れなかったため、以降赤瓦として城中に届けられました。 承応2年(1653)には、太鼓門(現在の椿坂正面)が初めて赤瓦によって葺(ふ)き替えられ、その後、城内の屋根瓦は、順次赤瓦に変わっていったようです。 発掘調査を行うと、現在も城跡からは、黒瓦と施釉された赤瓦の両方が出土しますが、本丸付近では約7割、復元場所からの出土においては約9割が、赤瓦で占められています。さらに城下絵図などを見ると、江戸時代後期の絵図では、屋根が赤系統の色で描かれていることが分かります。 このようなことから、復元の時代設定である江戸時代の末期には、干飯櫓・南走長屋ともに赤瓦で葺かれていた可能性が高く、このたびの工事においては、赤瓦で復元することとなりました。
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