
第五回 「干飯櫓はいつ建てられたのか」
復元工事の設計図面を作成する過程の中で、解明しなければならなかったことがありました。それは、干飯櫓と南走長屋はいつごろ建てられたものかということです。このことは、復元の時代設定をいつにするかという点でとても重要なことでした。
調査した絵図面の中で、正保4年(1647)に幕府に提出された陸奥之内会津城絵図(正保城絵図)には、復元をしようとする干飯櫓と南走長屋が描かれており、これにより、当時既に建物が存在していたことが分かります。また、この絵図では天守閣が5層で描かれいます。これは、7層であったとされる天守閣が慶長16年(1611)の会津大地震で大きく破損し、その後、寛永16年(1639)ごろに改修されて5層に改められたことを裏付けるものです。さらには、弘化4年(1847)以降に書かれたとされる若松城下絵図屏風には、当時の建物がより詳細に描かれており、現在の遺構とも一致するところが多々あります。 以上の調査から、干飯櫓と南走長屋については正保4年には建っていたことになります。しかし一方、天守閣をはじめ石垣などは度々改修されていることが文献に記されており、この干飯櫓と南走長屋も例外ではなく、家世実紀には延亨元年(1744)に、膨らんだ干飯櫓下の石垣を改修した記述があり、おのずと櫓はその直後に再建されたと推定されます。以降干飯櫓は、明治7年(1874)に取り壊されるまで百数十年ほど存在したことになります。 ただし、絵図については抽象化して書かれている部分があり、どうしても写真に勝るものはありません。そのため設計作業に際しては、広く諸外国まで写真の所蔵を問い合わせることになりました。その結果、明治初期におけるより鮮明な写真の入手に成功し、この写真により復元の時代設定を江戸時代末期とすることとし、建築工法についても当時の工法に倣うこととした設計図面が出来上がりました。 |